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GHRDモザイクーインドでの教訓;ナショナルからリージョナルへの道程

#Asian Pathways to Globalization
#MainTopic :4-2-3 HQ's Deep Dive into "National HR/HRD" 1999-2004
#Related topics: Lessons from the HQ-driven NHRD experiments from 96-04
#Opinions & Suggestions are welcome from MC Global Network, esp. India!!!
"Incident No.4- [2-3]: NHRD Waves No.2 in HQ - Global Leadership Program フェーズ2[GLP-II]の萌芽+インド三菱での教訓 その⑤後編その3
#Demonstration of Bilingual Competence - Japanese version


⑤インド三菱との邂逅と初めてのHRD大規模コンサル(後編その3)

そもそもIIMから日本企業に入る、という事実自体に驚愕した。状況を訊いてみると、1997年のアジア経済危機に際して、インド経済も減速期に入り、IIM卒業生といえども容易には優良企業に入れない氷河期に入ったとされる。その機に乗じて、インド三菱は何と7名ものIIM卒業生を入社させたという。まだ、弊方がインドの人財についてに認識を新たにする1999年以前の事であり、当時のマネジメントの断行には頭が下がる。

しかしながら、約二年間でそれらIIM卒業生7名のうち、4名は主に起業を理由として失い、弊方がインド三菱で目を付けた3名の内、5番目もリテンション出来ずに退社した。やはり、新規事業をしたいという理由であったが、人事制度の改革を進めている最中の出来事であった。給与面はもちろんであるが、駐在事務所であったこと、そしてそれ以上にキャリアマネジメントに限界があったことが大きな理由であったと思う。

その後の経験でも、個人別のキャリアマネジメントがなされない限り、やる気の高い「優秀若手社員」は、3~5年目に辞めてしまうことが分かっている。何故、本社からの駐在員はそのようなやる気ある若手有望社員の「動機」を読み取れないのか。
優秀な部下同僚であればあるほど、一緒に仕事をして欲しいと思うのは自然であるが、多くの場合、キャリアマネジメントに関する会話をしていない、もしくは会話があっても「実行」が長く伴わない。たわわに成った果物と同様、遅かれ早かれ実は取られるか自ら落ちる。

この経験に鑑み、IIM卒業生の6番目の社員とは、じっくり話合った。彼は、三菱商事は「グローバル企業」とは程遠く、単なる「国際的に活動する日本企業(Japanese Company with International Presence) 」であるという。
香港での10数社の欧米亜グローバル企業群との付き合いからの弊方知識からは、全くもって「その通り」と思われたが、組織構造を変えようと思い日々奔走していた自分としては、他社に移るのは簡単であり、明確な意思をもって進化させるための一人一人の意識変革と行動が最も重要と思われた。

この6番目のIIM卒業生に何ができるのか。本人が辞めそうだというので、拠点長の了承を得て面談することにした。インド三菱から東京本社への出向を企図して、本社の「心ある」というよりも、日本語の出来ないインド人MBAを活用したいという部長を意図的に探してみた。自動車、機械、それぞれに真剣に検討してくれ、手ごたえがあったが、最後にダメもとで鉄鋼の三国間貿易で既に南米人、中国人等を活用していた鉄鋼国際貿易部局に頼み込んだところ、快諾してくれたときは心底から安堵した。
元々、インドから出張させて本社での面談に臨ませたわけであるが、引き受け手が無かったら、帰国させて転職を容認するつもりでいたので、リスクはとった訳であるが、無謀極まりない。

制度的キャリアマネジメントについては、21世紀に入って、先述の上田敏氏が中国総代表付として立案し推進した「中国プロフェッショナル制度」(後に詳述予定)で確立されることとなる。進取の気性をもった先達がいつの時代にも重要であることは歴史が証明しているのだが、「継続性」はまた別の話である。
やはり、単一地域を対象としてシステムで始めたとしても、本社主導のグローバルキャリアマネジメントシステムが必須であり、そのシステムを各営業グループの本部付と入念なるインターフェースを維持しつつ運用することが緊要であることを学んだ重要施策ケースとなった。

後篇その4に続く)


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