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NHRD事始め-インドネシア①(1989-)

インドネシアでの経験{1989~1995年}は、100数十名のオフィス(=駐在事務所)を如何に動機付けし、かつマネージするかという点で大変なチャレンジとなり、そこでの経験は本社からのサポートも無く、後年2009年に連結ベースで弊方が本格的に始めた連結HRDネットワークの大仕事に比べれば、ジャカルタではナショナル次元のみで楽だった。孤軍奮闘一人と「優秀かつ勤勉な多数のインドネシア社員」だけで頑張ったといって良い状況であったので、個人的な人材開発(人事プロフェッショナルとして)のためには大きな源泉となり、数々の課題を経験することが出来た。
しかしながら、30歳そこそこで経験不足に加え、個人的なエネルギーとスキルの限界もあり、残念な事に在インドネシアの十数社(自動車、化学品、物流等)の関連会社の人事制度には関わる余裕どころか研究する余裕も無かった。
やはり、最初の海外駐在の場合、本社からの連結ミッションも明示されておらず、個人意識的にも薄かったので、人事課題も表面的になぞるだけであった。更に、駐在員60名と家族の生活も大変だったので、毎日の生活課題も極めて煩雑で、社宅手配、社有車手配、病気対応、水対応等も多くのエネルギーと手間を要した。今思えば、言い訳にしか聞こえないが当時はそれが「意識の限界」だった。

国別地域別の連結経営ミッションの中でのHRDミッションについては、とても重要であるので、別分冊{要追認}で詳述する予定である。

さて、インドで1998~2001頃に試行錯誤したグローバルHR・HRDシステムについてはもう少し後に詳述するとして、インドネシアで弊方が初回駐在員として経験した中で、後にリージョナルHRDに必然的に携わるきっかけとなった「3つの出来事」に言及して置きたい。
それは、弊方は幸運にも偶々訪れた機会であったが、その学びがあまりにも刺激的であったので、後に本社の若手研修(入社二三年で全員が海外に行くという海外インターン制度)が実施されたとき、アジアでは人事部若手に複数国のオフィスを経験させることを強要したきっかけとなった事が重要である。

先達から与えられた「試練」が積み重なり、後に「果実」となるという3事例である。これは真のリーダーシップとは何かについて重要な示唆を与えてくれた。
1)他のアジアオフィスからの招待{当該オフィスのHRシステム改訂への助言等}
2)アセアン域内マネジメントセミナーへの参加(1992年)および主催(1993年)
3)地域HR会議の開催{本社から否応なく「押し付けられた」事の所産}

これらは、三菱商事のアジアでの連結経営、そして2000年以降のグローバルHRDとリージョナルHRDの連関施策という重要なミッションに深く思いを致すきっかけとなった重要な案件であるので、以下に順次説明したい。

現場体験および先達から与えられた「試練」が積み重なり、後に「果実」となるという3事例である。以下、順不同で述べる。

1)アセアン域内マネジメントセミナーへの参加(1992年)および主催(1993年)
2)地域HR会議の開催{1995年本社から否応なく「押し付けられた」事の幸運}
3)他のアジアオフィスからの招待{当該オフィスのHRシステム改訂への助言等}

インドネシア:その3
他のアジアオフィスからの招待{当該オフィスのHRシステム改訂への助言等}

1989 年に初の赴任を命じられ、初体験のジャカルタに住み始めたことは既に述べた。
個人的な視点からは、インドネシア人は概ね日本人と相性が良い。人懐っこいが「本音」をあまり出さない。また、「怒り」を悟られることを恥と考え、「起こることは大人に悖る」と考えていることが専らで、EQを発達させる必要がある。その代わり、日本人と同じで、親しくなると深く結びつく。人懐っこく、笑いを絶やさないが、怒りを溜める性質だけあって、怒り心頭に達するとこれは恐ろしいレヴェルー人が変わり別人に変貌ーになる。

前任者が弊方着任前に既に帰任していたため、引継ぎ書類は無論のことくまなく読んだが、同時にオフィス内を歩き回って「事実確認」に努めた。その結果、自己確認できたことは次の 3 点。

(1)対日本比較相対的給与水準の低さ
当時、東京の大企業は4大卒で20数万円の額面が月例給与であった。それに対し、ジャカルタオフィスでは、大卒の初任給(月例)は円換算で3万円程度。
幸いなことに、MCはインドネシアでは人気企業であり、その程度の給与でも一定レベルの優秀社員が採用できた。しかし、先述した通り、特定の業界では退職率が高い。従って、考課制度を全面改訂し、給与を短期間で増やせるように標語(例:5段階標語)に基づく昇給率を大幅に改定した。これは、2000年以降のインド三菱の人事制度改革でよりドラスチックに実施することが出来た。効果がはっきりと確認できたからである。

(2)インドネシア人社員の「やる気」と「優秀性」
そのような「低い」給与水準でも、インドネシア人社員が本当によく働いてくれたことに正直感動した。そのため、上述(1)のような人事制度改訂を積極的に進める動機が確立されたという歴史である。「意気に感じる」ということを体感できた6年間であった。
ボーナス制度の大改訂は先に述べたが、この改訂の際に後に各オフィスでの制度改訂に大いに頭を悩ませたHR課題がある。それは、駐在員およびNS(ナショナルスタッフ)マネジャー以上の考課能力の向上である。この問題については、インド三菱での修羅場?体験について後述する。

(3)ボーナス制度の大改訂(月例給与6か月以上支給可能に)
給与改定の際の標語の%の問題、定性、定量評価の問題は、被考課者の数が多くなればなるほど、「公平性」とのジレンマが増大する。ボーナス考課は、結果的に、原資を与えて部門ごとに一定のルールで配分することを許すことで単年度評価を前提にすると一定の理解度を得られた。また、難易度を設定し、被考課者も合意することで効果後の不満を減らすことが出来た。これらをゼロにすることはそもそも不可能である。「誤るは人の常、許すは神の常。」
しかしながら、月例給与の昇給率については、昇格と直接リンクするので、最も調整が難しいポイントとなる。これについては様々な思考錯誤を毎年実施し、一定の理論に到達することが出来た。

インドネシア②に続く 

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