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NHRD事始め-インドネシア②(1992-93)

インドネシア:エピソード2

2ー1)アセアン域内マネジメントセミナーへの参加(1992年)および主催(1993年)

2ー2)地域HR会議の開催{1995年本社から否応なく「押し付けられた」事の幸運}

先述したアセアンマネジメントセミナーは1992年の第一回、翌1993年ジャカルタでの第二回、その後マニラ、シンガポール、とアセアン諸国持ち回りで順次開催され、その後のリージョナルHRDの源泉となった。これは、元はといえばタイMCの上田敏部長の個人的なビジョンであったが、各国の総務人事駐在員とNS人事マネジャーおよびスタッフとが年々深く協働し、当該国の著名大学等、様々なリソースを駆使し、各国ならではの特色を最大限生かし、毎年進化して行った。最終日のPartyも文化的な特色を交え、皆が楽しめるものになっていった。
本社人事部は、この進化についてほんの一部のみしか知らなかったわけであるが、このようなリージョナルの施策の自律的進展は、後に大きなうねりとなって本社のグローバルネットワークの一部として発展しつつも百花繚乱してゆくことになる。

このような動きの中で、MCの「地域横断的な動き」の原点となる施策が本社から発表された。既にタイMCから本社人事部に帰任していた上田部長代行{と記憶}の企画である。アセアンマネジメントセミナーの新設と同様、組織変革の機動力を増進する企画を、特に海外オフィス関連で次から次へと起案し、確実に実行に移す。後にもグローバル人材開発室長として多大なる薫陶と特筆すべき自己発展の機会を与えてくれたが、90年代における第二の「衝撃的な体験」を与えてくれたのも上田敏氏であった。真の先達の慧眼と未来を見据えたアクションに対し、今でも感謝しきれない。このようなイニシアティブは進化し続ける組織にとって必要不可欠な要素である。

1992年のアセアンマネジメントセミナーまで、アジア地域の横連携は無かった。特に、人事総務は当該オフィスおよびその国の連結子会社並びに関連会社のお世話で忙殺されていることもあり、一般的に当該オフィス対本社人事部の一対一の関係が中核であった。
このような現状の中で、アジア内各オフィスの内部に分け入り、人事マネジメントの観点からそれぞれの発展段階を確認しつつ、類似点と相違点を発表しあい、ひいては各分野でより進んでいたオフィスに着目し、発展途上のオフィスとの間に横糸を通し、よって相互に学びあうという趣旨の会議が提案されたのである。
記憶を辿れば、元々はジャカルタでの開催が企図されていたわけではなく、当時先進オフィスであった香港三菱商事にHR会議の主催を依頼したところ、多忙等を理由に断られてしまったと。
そこで仕方なく、人事部出身者が駐在する数少ないオフィスであるジャカルタ駐在事務所でアジアHR会議が開催されることになり、弊方が責任者となってしまった。「修羅場」その2である。この会議は、本店のチームリーダー職も務めたことのない若手職員には専ら経験不足のためもあり、困難な課題であったと言わざるを得ない。海外オフィスの経営課題はそれまでの数年間の経験である程度熟知していたものの、現地法人の知識は必要であった。しかし、当時の自分にしては入念な準備を重ね、いわゆるKM{ナレッジマネジメント}的な会議は初めての試みとしては成功裏に完了し、自分としてもタイ三菱商事および台湾三菱商事から多くを学ぶことができた。議事録も大分冊となったが何とか纏め上げた。
この会議は、ジャカルタから本社(人事部国際人材開発室)帰任後、1998年から香港人事子会社での出向時、初めての総経理としての経営課題に直面した際に大いに役に立った。「塞翁が馬」の意味合いを理解しえた機縁となったわけである。

KMワークショップの概念図

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