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日本人は誰からも理解されないことに、とてつもない誇りを感じている

「なかなか見つからなかったドラッカーの日本画と日本人論を、やっと手に入れました」

先日、とある画家の方からメッセージをいただいた。

その方と初めて会ったのは、2021年10月30日。

「ドラッカーがコレクションしていた日本画は、変な絵が多いのです」

「変な絵、ですか?」

「◯◯が上手く書いてある、そうした絵は一枚もなく」
「摩訶不思議な、ぼわっとしたものが描かれています」

新聞では「渋好み」などと濁されていた。こうした本音はなかなか聞けない。

ドラッカーが日本画と出会ったのは、ナチスの迫害を逃れイギリスに渡った20代前半。仕事帰り突然の雨に降られ、バーリントン街の美術館に逃げ込むと、まったくの偶然にヨーロッパ初の日本画展が開催されていた。

「恋に落ちた」

彼はそう述懐している。

ドラッカー学会の代表理事、井坂康志先生は、ドラッカーの妻ドリスの言葉を引きこう記している。

「そこに自分自身の魂の居場所があった」
「日本画を眺め、『正気を取り戻した』」
「日本画を見るドラッカー」http://drucker-bunmei.jp/archives/1250
『P.F.ドラッカー』文眞堂

彼が熱烈に愛し、「正気を取り戻す」ために眺めたその作品群は、「変な絵」であった。しかしその奇妙な絵が、自身を正気に戻す魂の居場所でもあった。

僕はこの現実にたまらなく魅力を感じた。

画家が手に入れた入手困難な小冊子は、『日本画のなかの日本人』という非売品。僕は、どうしてもドラッカーの日本画と日本人論を読みたくなり、いろいろと検索をした。

英語では、"The view of Japan through Japnese art"というタイトルらしい。幸運にも僕が持っていた本、"The Ecological Vision"に収録されている。

そこでは、これまで聞いたことがない日本人論が展開されていた。

「西欧画は幾何学的」
「背景より、絵が主役になる」

「中国画は代数的」
「絵の中のそれぞれが関係性を持っている」

「日本画はトポロジー的」
「連想、類推、比喩的なまとまりである」

西欧画も中国画も普遍的な構造を作り出そうとするが、日本画は、優劣を付けられない感覚的な何らかのまとまりなのだ。

「確かに、日本画は中国画を手本にしている」
「だが中国画の批評家は、日本画を見ると落ち着かなくなってしまう」
「『すべてが似ているのに、すべてが違う』、と」

日本画同士の比較は、言ってみれば「Jazzと野球のどちらが優れているか」といった比較と同じで、優劣を付けられるものではない。権威ではなく感覚的なまとまりである。

・海外で「これが良い」と紹介されるものも、日本人にとってはガラクタ。
・海外でガラクタと言われるものも、日本人にとっては黄金。

そんなことが多々ある。

例えば、国民国家は日本人にとって毒物的なパロディに映るし、中国で荒いとか卑猥とかされた13世紀の牧谿(モッケイ)やYin T’o-loが、14、15世紀の日本では持て囃された。

だから日本人は、海外ととてつもない奇妙な関係を結ぶことになる。日本を日本らしくするものだけを吸収する。幾何学とか代数的な権威はどうでも良く、トポロジー的に受け入れられるものを受け入れるのだ。

良いと言われる構造に寄るのではなく、「これ、どうやって俺らしく改造できるのか」と考える。権威に媚びず、カスタム・デザインをする美学。

誰からも理解されないかもしれない。しかし日本人は古来、誰からも理解されないことにとてつもない誇りを抱いてきた。ドラッカーはそう指摘する。

彼はそこに魂の居場所を見つけた。諦めにすら似た奇妙な美学の中に。

必然を追いさえすれば、必然が起こるというわけではない。世の中は奇妙なことばかりだ。そして、奇妙なものの中にこそ命運を見つけられる。

「僕らは変わっていく 守りたいものが変わっていく」
「理解されない宝物から 理解されるための建前へ」
「大人になるほど 後悔する生き物になる」
『らしさ』 作詞 柳沢涼太

物理学では、生命が誕生する場所とはカオスの淵だと教える。
神道の最高価値は、なにかを生み出すことである。

すなわち我らの魂は「奇妙さ」の中にあるのだ。



ならば、僕は、どう奇妙でいようか。

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