「僕は壊れた人間が好きだ」庵野秀明

「僕は壊れた人間が好きだ」

エヴァンゲリオンの庵野秀明はそう語る。

彼の作品の登場人物は、必ずどこか壊れている。かつて描いていたロボットアニメでも、腕や足がとれた。

そこに神聖な何かを感じるからだろうか。視聴者の熱狂ぶりも他とは次元が違う。なにか真実に触れた感が起きる。

庵野の父は、事故で片足を失っていた。

「彼は世界を恨んでいました」
「他人と上手くやれない人でしたが、大好きでした」
「僕は父を正当化したいのかもしれない」

ヘーゲルが最も嫌ったものは「神のいとし子」たちである。普遍的に自分が優れていると勘違いした者たち。彼らは他者を笑い、自らの意見だけが優れているとして他者に自分を強要する。

だが庵野なら、そんな神のいとし子ですら愛してしまったかもしれない。

かなしいかな。
もっとも軽蔑すべき人間の時代が来る。
自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

山田太一はこの言葉をもとにドラマを書いた。そこで彼は視聴者をこう罵倒する。

「おまえたちは骨の髄までありきたりだ!」

自らを軽蔑できない人間ほどありきたりな人間はいない、と。
同時にニーチェは彼らを何より卑しいと言う。ありきたりな人間ほど自らを神のいとし子にする。壊れられない人間に。

だが庵野はそんな最低の人間さえ愛した。

先日、僕は78歳になる叔母にこう尋ねた。

「昔は大変だったってよく聞くよ」
「でも今も生きるのが大変だら?」
「叔母さん、今と昔、どっちが生きるの大変だった?」

「そりゃぁ、圧倒的に今の方が大変だよ」
「昔はね、大変だったさ」
「薪だって自分で取ってきたんだからね」
「でもね、みんな貧乏で大変だった」
「みんながどこか変でさ」

スコラ哲学の生起以来、人は正しいことだけを求め続けた。事実に基づくこと、正しくあること、なにも間違えないこと。欠点が一つもない神のいとし子であることを理想とした。あまりに息が詰まる、生きにくい世界を生み出してきた。

庵野は僕たちに、「壊れていい」と言ってくれたのかもしれない。最も軽蔑すべき人間から僕たちを解き放つために。

「僕は壊れた人が好きなんです」

そんな人間が苦しむ様も、父からの陵辱も、自らが犯す失態も彼が愛する対象だった。崇拝ではなく、愛の対象を求めた。

神を規範とすることは人の義務であろう。しかし人が規範とすべきは全能ではなく、愛する力の方であった。

我らは全能にはなれないが、壊れた人を愛することはできるからだ。

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