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その謝罪はいらない

先日、所用で関東のとあるところまで電車四本を乗り継いで出かけた。
引きが良いというのか、運が悪いというのか、その四本の内三本が『緊急停止』してしまった。
一本目の停止理由は『次の停車駅の非常停止ボタンが押された為』。二本目は『直前での踏切の無理な横断があった為』。三本目は『車内に急病人が出た為』。
どの場合も車掌が
「お急ぎのところ申し訳ございません」
と何度もアナウンスしていた。

このアナウンスは珍しいものではない。こんなに頻度は高くなくとも、日常いつでも普通に耳にするものだろう。
しかし、私はいつもこのアナウンスを聞くと物凄く違和感を覚える。
『なんで謝んねん』とツッコミを入れたくなる。
皆さん涼しい顔をして聞き流しておられるように見えるから、その違和感を顔に出すことは決してしないし、誰かと一緒に乗っていても
「あのアナウンスって変やんな?」
と同意を求めることもしない。
だけど、強烈に引っかかっている。

『申し訳ない』とは『申し開きができないこと、弁解の余地がないこと』をいうそうだ(小学館 新撰国語辞典 第九版)。文字通り謝罪の言葉である。
謝罪、というからには『罪』を犯していることが前提だろうが、この場合、なんの『罪』に対して車掌さんは謝っているのだろう。
『謝る』は『自分の間違いを認め、言葉や態度で表すこと』(同)だそうだ。
何が『間違い』なんだろう。定刻通りに到着出来ないことが『間違い』だとして、その非はこの場合、運行責任者側には全くないように思うのだが。

運転士が居眠りして遅れたとか、車掌が漫画に没頭していて着駅のアナウンスを忘れた、というのなら『謝ら』ねばならないだろう。謝らないのはおかしい。
しかし、『非常停止ボタンを押した』のは必要に迫られた、駅にいた誰かだろうし、『踏切を無理に横断』したのは近隣の住民の誰か、だろう。まして『急病人』はわざとその状況になったわけではあるまい。
じゃあ一体、彼らは何に『詫びて』いるのか。
不思議でしょうないのだ。

世の中には沸点の低い人がまあまあの数いる、ということは、接客業を長くやっている人間なら誰でもわかる。そういうほんの一部の特殊な人間に対する気遣いがこう言わしめているのだろうか。
それも大いにあるだろうが、私はちょっと違う気がしている。
『喧しく言う奴が居るかも知れないから、取り敢えず誰にでも下に出とけ』
という、卑怯なへりくだりの発露を感じる。考えすぎだろうか。
なんだか聞いていると、お尻がモゾモゾするのだ。

『私はあなた様よりも常に下です』
『非は全て、わたくしにございます』
こう言っておけば、対峙する相手はファイティングポーズを取り辛い。
つまり理不尽に攻撃される心配はぐんと減る。無駄な疲れる闘いをしなくて良い。自分が守られる。身を守る為にはある程度必要な技術だろう。
しかしやり過ぎると鼻につく。私などは、発言した人の人間性を疑ってしまう。
本当は悪いことをしたとは思っていないのに、謝罪の言葉を口にしているということは、腹の底から謝罪しているのではない、ということだ。自分に嘘をついていることに他ならない。そんな発言、信用しがたい。
第一聞いてもちっとも心休まらないし、響いてこない。かえって胸がザワザワするように思う。

世の中色んな人がいるから、鉄道会社の気持ちも分からないではない。
でもこういう場合は謝る必要はない気がする。
『お急ぎの方には恐れ入りますが、もうしばらくお待ちくださいませ』だけで十分ではないだろうか。
自分が悪くないのに、謝らなくて良い。
謝り過ぎは良くない。
聞く方も、これを当たり前だと思わない方が良い。
『この場合はどう言うのが正解なんだろう?』と目をキョロちゃんのように天井に向けつつ、自分の世界に籠って自問自答するのは、傍目には変なババアに見えるだろうが、私にとっては大事な時間である。
何もかも白黒つける必要はないが、自分の納得感は大切にしたいものだ。









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