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神様へ参るという事

宮本常一『民俗学の旅』,講談社,1993,p47-48,(講談社学術文庫)

日本で言う神はGODではなくNATUREが近いと思うが、祈るあるいは参るときの心持も大きく異なる。一部だが神社では鏡がご神体とされ、太陽を象徴すると同時に自戒の意味も持っているそうだ。こういった部分は、カトリックをはじめとするキリスト教が告解(懺悔)や献金によって身を正す点とは大きく異なり、祈る相手は自分も含まれることになる。

宮本常一の母は毎日お宮へ参り、それとは別個の事由で改めて参る事も頻繁だったという。そんな姿を見て常一の父は「そんなに神様に頼ると、神様はうるさがりはしないか」と冷やかしたそうだが、母は「千に一つ聞いてくださってもありがたい」と答えたという。

「頼みさえすれば聞いてくれる神様なら参らぬ」

そう言った常一の母は、あくまでも自ら行動した先にある、自分の力の及ばない事柄について祈っていたのだろう。「人事を尽くして天命を待つ」である。

2011年の東日本大震災後の日本人の行動は世界に驚きを持って好意的に受け止められた。その中で印象的だったのは、フランスの社会学者の「日本人は、悲観的でない運命論者だ」という言説。これは、まぎれもなく現代の日本人を評した言葉だが、これは昔も今も変わっていないのではないか。自分の力の及ばない世界を受け入れ、悲観的にならずに受け入れる。自分が出来ることを尽くし、あとは天(神)に任せ、その結果を受け入れる。そういう態度が、日本人の根底にはあるように思える。

「(前略)日本中の多くの家庭がこういうものではなかっただろうか。」と常一が言うように、今も昔も、これが「日本人らしさ」なのかもしれない。これから先、日本は色んなものを失っていくと思うが、この精神性だけは失いたくない。

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