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西洋美術雑感 20:エル・グレコ「聖ヨハネの幻視」

さて、それではエル・グレコ、行ってみましょう。エル・グレコのはなはだしい特徴は、絵をひとめ見ただけでエル・グレコと分かるところであろう。間違いようのない個性がある。ということは逆に、軽く見られる根拠にもなるんだよねえ。
 
いま現代に生活している僕らの大多数は、芸術作品というのは芸術家が自らを表現したものだ、という考えを当然だと思っている。もっとも、日本語ではそういう芸術を特別に「アート」と横文字で呼ぶ傾向があるのもおもしろい。で、「芸術」って漢字で書くと、個性というよりなんとなく高尚じゃないといけない、みたいなニュアンスになる。
 
ここにあげたエル・グレコの絵は「聖ヨハネの幻視」だけれど、見ての通り、人物の顔と肢体をびよーんとやたらと伸ばして、衣服もシルクのように線状に光る繊維をびよーんと伸ばしている。色は青、緑、黄と色分けのように塗って、さらに、特徴的な空の雲は裂け目があって光の淵ができて、やはり流れている。全体に過剰に動的である。あと、それから彼は、誰の顔を描いてもその顔が間違いようのないグレコの顔になっているところは、まるで今でいう一人の漫画家が書いた各種登場人物のようである(グレコの場合は少女漫画かもしれない)
 
この、いわば、どの絵を見てもいつでもエル・グレコな表現が好きな人は、大ファンになると思う。僕は、というと、白状するとけっこう好きである。しかし、いろんな人がその過剰に個性的がゆえにグレコを軽視する気持ちもわかる。グレコは16世紀スペインの画家だが、同じスペイン人のダリなど、けっこうグレコを味噌糞に言っていた。
 
そのダリがラファエロの絵についてオモシロイことを言っている。うろ覚えだが、ラファエロは師のペルジーノの絵を完全に模倣し、違いは聖母の首を若干余計に傾け、階段を一段減らしただけだった。しかしそれゆえにラファエロは神々しい永遠性を手に入れた、と。すなわち、絵に個性などという怪しげでその場限りのモノを導入するなんていうのは俗人のすることで、品位の無いことで、神々しさは独創性の欠如の中にこそある、ということである。
 
かつて僕はグレコが住んでいたトレドというスペインの田舎町へ行ったことがあった。もちろんエル・グレコの絵とその世界を見に行ったのである。その、斜面に建っている小さな街はグレコが描いたトレドの風景という絵そのものだった。ところどころに鋭い尖塔が天に向かうゴシック教会があり、一種異様な光景だったのを覚えている。たぶん、それは街が異様だったのではなく、異様なグレコの絵の印象と重なったからだと思う。
 
それで、まだ若かった自分は思った。グレコの絵はあの教会の尖塔の針のようだ。それは何か特殊なものを精神に鋭い針で注入している。それに対して、真に貴族的な、たとえばベラスケスの絵にはそんな針はどこにもなく、ただ満遍なく漂う埃に乱反射する光がその代わりだ。すなわち、注入するのではなく、吸入させる。やはりグレコは俗だ、と思ったものだ。若かったしね。
 
でも、いま思うと、エル・グレコのあの、針で刺された風船がはじけ飛ぶ刹那に現れる幻を定着させたような、あの見間違いようのない絵が、なんだかんだで、結局、自分は好きだし、いいなあ、とうっとり見ていられる気がする。それに対してベラスケスは空気が濃厚すぎてちょっと息が詰まる、などなどと思うようになった。やはり人間は歳を取ると孔子さまじゃないけど、耳順になるということであろうか。

El Greco, "The Vision of Saint John", 1608–14, Oil on canvas, The Metropolitan Museum of Art, New York, USA


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