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西洋美術雑感 31:アングル「浴女」

これはアングルの有名な「浴女」という絵だが、この裸の後ろ姿のインパクトはたしかにものすごい。ルーブルで見たが、なんといったらよいのやら、その完成度の高さは尋常ではなく、呆れ果てるレベルである。この裸体の、顔もなければ、胸もなければ、お尻もない、この肌のかたまりの描写は、産まれたてのツルツルのなにかの虫のように見えた。
 
肉付きのよい、ちょっと盛りを過ぎた、しかしまだ十分若い女の後ろ姿、と言えないこともないけれど、たとえば、それまでやたらと女の裸体ばっかり描いていた西洋絵画の、ルーベンスでも、ティッチアーノでも、ブーシェでも、とにかく何でもいいが、それらの裸体と比べてみるといい。アングルのそれは僕の考えでは、なにかぜんぜん違う代物に思える。
 
かつての裸体はどんな時でも、やはり人間であり、女であり、血が通った人類だった。特にルーベンスは女のぶよぶよの脂肪に執着してずいぶん描いたが、このアングルの描いた脂肪と比べてみると、これはぜんぜん別物に思える。たしかに表面処理の違い、肌のテクスチャーの違いと言えないこともないけれど、ひょっとすると、アングルのこれが変に感じるのは、デッサンの絶妙な変形のせいじゃないか、と思えて来る。よくよく見て欲しいが、なんかこの身体の形態はおかしくないか? なんだか人類じゃない、なんか別の生物みたいに見えてしまう。
 
ところで、アングルは、印象派が出る前の時代の、正統派のアカデミーの画家であり、大御所中の大御所であった。印象派はその作画テクニックにおいては、当時のロマン派のドラクロワからの影響が大きく、逆に、アングルはそのロマン派に対抗する新古典主義を名乗る画風だったのである。それはラファエロを理想として、極めて完成度の高い緻密な絵を特徴とした。もっとも、絵画の世界はこんな流派で単純化して語ることは本当はできないのであって、ここではこれ以上深入りはしない(ちなみに世の中のお手軽解説では、この単純化がひどすぎる。本当ならああいうのは話半分に聞くべきです)
 
モネの「印象・日の出」という絵が出た第一回印象派展は、正統派のアカデミーが支配するサロンに比べると、観客動員数でサロンが四十万人のところ、たった三千五百人でまったくお話にならなかった。後に印象派と呼ばれる彼らは、当のアカデミーから、そして一般観衆から激しい嘲笑を受けたそうで、その、印象派対アカデミーの対立の構図ははっきりしていていた。アカデミーが印象派を弾圧していたときにはすでにアングルはおらず、彼の後を継ぐ画家たちがいた。それが例えば、カバネルであり、ブグローであり、ジェロームなのだが、僕自身は「ゴッホの手紙」をさんざん読んでいるせいで、どうもアカデミーにえらく偏見があり、それらの画家の名前は、印象派側から見ると逆に嘲笑の対象であって、僕にもそれが十分刷り込まれている。
 
というわけで、例えば、第一回印象派展があった時と同じ年のサロンに入選し、絶賛されたカバネルの「ビーナスの誕生」なんて絵を見ると、もう反射的に、ウヘーってなり、嫌悪感が出てしまうのを止められない。なんて低俗な絵なんだ、とどうしても反応してしまうのである。この若い女があられもない姿勢で裸体を晒してる様子なんか、神話にかこつけたエロ写真じゃないか、と思ってしまうほどである(ファンの人、すいません)
 
しかし、このカバネルの師匠に当たるアングルの絵になると、やはりずいぶんと自分の反応も違う。冒頭に、アングルの浴女についての、勝手な感想を書いたが、このアングルになると、なにかとてつもなく変な絵、という風に反応する。あまりにヘンなのに、あまりに絵が正統で、これはやはり、どうにもならない大芸術であろう、と思う。現に、たとえば、印象派の旗を振っていたドガは、アングルに指導を受けていた時期があったらしく、アングルを絶賛している。


Jean-Auguste-Dominique Ingres, "The Valpinçon Bather", 1808, Oil on canvas, The Louvre, Paris, France

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