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西洋美術雑感 23:ピエロ・デラ・フランチェスカ「キリストの降誕」

いちばん好きな画家は誰かと聞かれてピエロ・デラ・フランチェスカと答えるぐらいの自分なので、すでに「キリストの鞭打ち」の絵を出したとはいえ、あれだけで終わるのは寂しい。なので、もう一枚、上げておく。
 
ピエロの絵は、非常に客観的な冷たい感じの様子と、恍惚としたような無言の共感の、相異なる二つの方向性が感じられ、この二つはどちらかが強くなることもあれば、同時のこともある、といった風で、絵によっていろいろである。それで、最初に出した「キリストの鞭打ち」は、前者の冷たい感じが前面に出た絵だったのである。なので、あれだけでは片手落ちで、やはり後者の共感が前面に出た絵も紹介しておこうと思うのである。
 
その例がこの「キリストの降誕」で、ロンドンのナショナルギャラリーにある。
 
1メートルていどでそれほど大きな絵ではないのだけど、これを見ていると、恍惚、というのがいちばん当たっているような、不思議な感覚に襲われて、なにも考えられなくなり、ぼんやりしてしまう。何に、と問われれば、それは共感としか答えようがないのだが、通常の生身の人間同士の共感とはだいぶ違う。
 
ここには登場人物が10人もいて、動物が2匹、鳥が一羽いるが、めいめいみながなんだかバラバラに見える。にもかかわらず、この神秘的な空間を全員が共有している。それで、神秘的と言っても、そこはトスカーナの遠景の前にある変に草の生えたただの荒れ地に、崩れかけた塀があるのみである。要は、なにもかもバラバラなのである。にもかかわらず、この強烈な一体感というか、この様子はいったい、なんなのか、なんど見ても不思議だと思う。
 
まず、自分が見て最初に思うのが、地面に置かれた赤んぼうのイエスだが、だいぶ不気味な胎児みたいで、可愛らしい様子は皆無で、すごく人工的に見える。マリアの優雅さは見事だが、徹底的に無表情で、降誕したイエスを前になにを思っているか分からない。そして、5人の天使がリュートを弾いて歌っているが、このめいめいバラバラに歌ったり弾いたりする様子はどうだ。でも、恍惚として昇天してしまいそうな、原始的な音楽が聞こえるようでもある。そして、右の三人の男は保存状態が悪く色あせているが、なんの関係もないような様子をしている。手前の座った男はイエスの父のヨセフと思われるが、まるでそのへんの行商人みたいにしか見えないし、第一、イエスとマリアと天使の劇からそっぽを向いている。牛は沈黙し、ロバはいななき、鳥は静かに停まっている。
 
見ていると、法外と言いたくなる神秘が感じられるのだが、それはキリスト教の神秘をあまり感じさせない。むしろ、遠い遠い未来の宇宙のようなものを連想する。
 
およそ自分勝手な空想に過ぎないのだけど、この未来的で宇宙的、というのが僕がもっとも好きな画家、ピエロ・デラ・フランチェスカに感じることである。
 
しかしいま思い付いたが、実はピエロは画家であるとともに、当時は数学者で幾何学者として知られていた、という事実があるのだが、それが関係しているかもしれない。彼が建物を絵に描くときのちょっと行き過ぎに近い厳密な透視図法はその幾何学者としての理論によっているのである。その数学的なセンスは、ひょっとするとそこに描かれる人間や天使やなにやらの有機物の振る舞いに対しても、独特の秘訣で影響を及ぼしたかもしれない。
 
そう考えれば、彼の絵画のその人間劇を超えた宇宙的な調和というのも、人間的秩序を超えた、ある数学的秩序のようなものの現れと捉えられるかもしれない。そのせいでなぜだか宇宙的なものを感じるのかもしれない。彼の奇妙な絵への共感は、そういう特殊な共感なのかもしれない。
 
こういうものを共感と呼んでいいものか、とも思うが、ひょっとするとこの独特な共感が、ニーチェによって神は死んだ宣言されたあとの、20世紀の芸術家や知識人たちに響いたのかもしれない。実際、彼の名は長らく忘れられており、彼らに再発見されて有名になるのである。

Piero della Francesca, "Nativity of Jesus", 1470 - 75, Oil on poplar wood, National Gallery, London


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