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西洋美術雑感 19:ドゥッチオ「十字架から下ろされるキリスト」

キリストの受難劇は、数限りなくある宗教画でもっともよく描かれたもので、その中でも、この、十字架から下ろされるキリストは、さんざんいろんな画家が描いている。
 
ここに上げたのは、ジョットと並ぶ、ルネサンス前期のイタリアのシエナの大画家ドゥッチオのもので、その受難劇は全部で26枚あって、これはその中の一枚である。実は、僕は、西洋に数ある受難劇の絵の中で、彼のものをもっとも愛しているのである。
 
母マリアをはじめとする女たちの純一な悲しみの表現と、はしごをかけてイエスを降ろしたり、体を支えたり、鉄釘を抜いたりする男たちが描かれ、これらがすべてが黄金色の光の中にある。これを見ると、いまだ素朴な、混じり気のない、余計な黴菌にまったく冒されていない純粋さを感じる。変な話だが、敬虔とか神秘とか、そういう宗教感情もなぜか湧いては来ず、ただただ、大切な大事な人が死んだ悲しみだけが恍惚とした光の中にあるように見える。
 
僕はクリスチャンではないのだけど、キリスト教にはずいぶんかかずりあってきた。まずは、ドストエフスキーの小説で、そして、アンチクリストを標榜するニーチェの数々の否定的な言葉によって、そして大好きな西洋古典絵画によって、である。自分にはそれらを通して、神の子イエスと、宗教としてのキリスト教について、わりとはっきりした感覚がある。
 
それは実際にはイエスは大偉業を成し遂げるために地に降りたのだろうけれど、彼がその最初に魅了したのは貧しく素朴な普通の人々だった。イエスの最初の奇跡は、ガリラヤのカナの貧しい婚礼の席でだった。彼は変哲ない素朴な民衆の喜びの場に現れ、水を葡萄酒に変えたのである。その飾らない愛を核として、彼が蒔いた信仰という種は、芽を出し大きく育って、その後のキリスト教がある。しかしそれは時間とともに最初の姿を完全に失ってしまい、それゆえに、知っての通り、その後の血塗られたキリスト教史もあるわけだ。
 
そんな、彼より後に生まれたキリスト教の動乱の中で、その最初の人、イエスはぜんぜん違う顔を持っている。それが、このドゥッチオの絵の中に現れているように、自分には見えるのである。
 
僕には、イエスの本当の顔を描き出した人、それがこのドゥッチオに思えるのである。

Duccio di Buoninsegna, "Deposition (scene 21)", 1308-11, Tempera on wood, Museo dell'Opera del Duomo, Siena, Italy


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