見出し画像

西洋美術雑感 21:フランシスコ・ゴヤ「黒い絵/棍棒で戦う」

マドリッドのプラド美術館で見たゴヤの話をいくつか書いたが、その最後にあたるのがこの黒い絵と呼ばれる連作である。
 
プラドで初めて彼の絵を次々と見てショックを受けたわけだが、それは、ロココ調で描かれた風俗画の不気味さから始まって、その後の戦争の描写や、悪魔的な魔女の集会や、独特な色彩で描かれた肖像画、そして、ベラスケスの女官たちとも並ぶ大作のカルロス4世とその家族の集合肖像画など、全体に、その油彩の表現力のほとんど奇跡的ともいえるテクニックと、その主題の奇妙さのコントラストに、自分はやられたのだと思う。
 
そんな風で、それらの絵画の数々で心が完全に疲弊してしまい、そんな状態で、順路の最後にあたるこの黒い絵の部屋に入ったのであった。
 
やはり先に少し説明が必要だと思うのでしておこう。ゴヤは70歳を過ぎて、マドリッド郊外の屋敷を買い取って、そこに住み、二階建ての家の壁を自らの奇妙な絵画で埋め尽くした。この連作は現在、ぜんぶで14点あって、その暗い色調と、救いがなく絶望的な、あるいは謎めいた、あるいは悪魔的な主題のため、黒い絵と呼ばれているのである。当時、彼は重い病の末にすでに耳が聞こえず、老いと絶望と発狂に怯える老人だったそうだ。もっとも、壁という壁を私的な絵で埋めつくし、しかもメイド兼愛人と一緒でもあったわけで、その精力はすごく、そのへんの老いた老人とは格がぜんぜん違う。
 
ともかく、ここにはその14点の中から、殴り合う二人の男の絵を上げたが、それはなぜかというと、この絵が恐ろしく美しいからだ。男たちの背景の白い雲と、ところどころの青空、黒と灰、そして全体の黄土色の色調とわずかな緑の、完璧な調和と、油彩の恐ろしく的確な技術を、まず見て欲しい。そして次に、この奇妙で絶望的な主題を思って欲しい。この絵の次の瞬間に二人は棍棒の下に血まみれになって共に倒れるのである。そして、その絵画の美と、その絶望の、互いに関係のないコントラストの凄さを感じて欲しい。
 
しかしながら、ふつうはそういう見方はしないかもしれない。恐らく、ゴヤは何のためにこんなシーンを描いたのだろうと反射的に考えるのが普通だろう。さらに、この絵はまだ分かりやすい方で、14点の黒い絵の数々は、ほとんど解釈不能な絵ばかりなのである。それゆえ、皆が寄ってたかって詮索をするのは当然のことなのだろう。でも、詮索をする前に、ゴヤその人がどんなに絶望しようと、パレットを持って画布に向かえば、そのイメージはほとんど自動的ともいえる完璧な技術の元に影像化する、その画家としての宿命の恐ろしさを思うと、自分はなんともいえずいたたまれない気持ちになるのである。
 
さて、若かった僕のプラド美術館での思い出ばなしに戻そう。
 
僕が初めて訪れた、その当時のプラド美術館の、このゴヤの展示の最後の部屋は、広くて楕円形だった。そこに額縁をつけない黒い絵の数々が、白い壁にはめ込まれていた。部屋は明るくて、入口の反対側にある大きな窓から外光が差し込み、ガラス越しに街路樹の緑が見え、その向こうにマドリッドの街並みが広がっていた。
 
その時の感じを覚えているのだけど、僕は、そこに並んだ絵の絶望的な暗さにもかかわらず、この部屋の空気が、牧歌的に感じられた。要は、もう、自分の心は完全に飽和してしまっていて、絵は目にも心にもまったく入って来ない状態だったのだ。さながら自分は、あたかも未曾有の大災害の後に、生き残った人々が集まって呆然とし、なにか完全に場違いなほどの静寂と平和が支配するような、そんな空気を思った。
 
とはいえ、しばらくその部屋をぶらぶらしていると、じょじょにゴヤの絵が目に入って来た。画布の上の絵具はやはり驚くべき美しさに輝いていた。でも、それを分かりながらも、同時に、僕は、時間も空間も超えた、どこか遠い遠いところで、これらの絵とともに円環を成して外へ出ることのない、奇妙な閉じ込められた精神みたいなものを、しきりに想像していた。
 
ちょっと長くなった。ホントはこの何倍もあるのだが、このへんにしておく。

Francisco de Goya, "Black Paintings / Fight with Cudgels", 1820 - 1823, Oil on canvas,  Museo del Prado, Madrid, Spain


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?