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西洋美術雑感 30:ミレー「晩鐘」

印象派の絵画へ移る前に、バルビゾン派の絵画を紹介しておこう。中でもこのミレーは日本でもなじみが深く、ほとんどの人が知っているであろう。バルビゾンはパリから少し下ったところにある小さな田舎町だが、ここにかつて幾人かの画家が集まり、その広大で静謐な土地の風景画を多く描いたのである。そこでは主題は風景の方で、かつての西洋絵画のような宗教でも神話でも歴史でもない。
 
ここにあげた絵はミレーで特に有名な作品のひとつの「晩鐘」である。絵の中の農民二人の姿を見て、これは人間が主題ではないか、と言うなかれ。僕の考えでは、これは自然の方を描いているのであって、頭を垂れる二人の農民に持たせた意味を描いているのではない。
 
ここに描かれた二人の農民は、おそらく夫婦であろうが、広大な畑での労働を終えて、暮れに鳴る教会の鐘の音に対して祈りを捧げている。彼らに、なんらかの敬虔さの描写を見て、自然と共に生きる者への共感を感じるかもしれないが、実際に鐘の音に対して頭を下げる彼らには、そういう現代人につきものの感傷は微塵もない。彼らの沈黙には、どんな言葉も届かない。ということは、彼らは、すでに自然と同じ列に並んでいるのであって、ということは、この晩鐘という絵は、人間劇を描いたのではなく、自然の方を描いているのである。これは僕の考えだが、自分はそういう風にこれを見る。
 
バルビゾン派の画家の中でも、ミレーは特に多くの農民を描いている。しかしそこに描かれた農民の姿をいくつも見てみると分かるが、彼らには目つきが描かれておらず、目はいつもぼかされて描かれている。彼らの心は外へではなく、内を通して大地に注がれているのである。
 
ところで、この農民画という主題は当時、けっこうな話題になったようで、ミレーに続いて幾人もの画家が、自然の中の農民を描き始めるのである。しかし、それらの農民画を見て、感じる人は感じると思うが、それはもう、すぐに堕落するのである。簡単に、現代人の感傷や、共感が、入り込んでしまう。要はロマンチシズムの対象になってしまう。僕が思うに、ミレーにはそういうものがまだ、ない。
 
ミレーの農民画を見ると、僕には、自然から与えられた自らの宿命に対する完全に無条件な服従という風に見える。そして、そうやって運命を受け入れた者がいかに、自然の中の上質で硬い樹木のような姿を現すか、それを描いているように見える。そして、その憂鬱な唯一の主題が、ミレーだけが持っている詩情で和らげられて、情緒を与えられて、描かれている。ただ、もっとも、こんな風に言葉で書いてしまうと、これはこれで一種のロマンチシズムのように思えてきて、しょせん、言葉は言葉である。だからこそ絵画で表現するのであろうか。
 
ちなみに、ミレーその人は、実際に農家の出身で、農業の経験があるのは確かのようだが、かつてよく言われた、敬虔で、道徳的で、清貧で、自らも農民として生きたミレー、という姿は伝記作者の創作によるところが大きく、実際のミレーとはだいぶ違っていたそうだ。彼の農民画に、清貧に甘んじて生きる農民の真の信仰を読んだのも、逆に貧しい農民の姿に社会主義的思想を読んだのも、労働への賛美と理想を読んだのも、ミレーその人の意図ではなく、絵の周りにいる者たちだったのは、確かのようだ。

Jean-François Millet, "The Angelus", 1857 - 1859, Oil on canvas,  Musée d'Orsay, Paris, France


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