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論文は使い回せばいい

北京に来てから早くも3ヶ月が過ぎようとしている。最近は学業面や体調面、その他諸々のTo-Doに追われて、心身ともにかなり消耗してしまっていた。その中で最近ふと思ったのが表題である。

以前の自分は、課題を与えられる度に「色んな論文を読み込んで、自分なりのトピックを探さなきゃ」と意気込んでいた。(その結果、撃沈することも多々あったが・・・)

しかし、今回はどうしても全力を割ききれず、「少しでも楽がしたい」と、大きな罪悪感に駆られながら過去に自分が書いた論文を漁って課題の文脈に会うように手直しをし始めた。

何回かそういうことが繰り返される中で、ふと気づいたのだ。ひょっとしたら、無理して新たな題目に挑戦していた時よりも学びが多いかもしれない、と。

確かに、改めて見返すと当時の自分の思考のアラがよく見えるし、やはり「納得する文章を出したい」という見栄からか、気付けば少し以前のものよりも考察が深まっている。加えて、与えられた課題にうまく適合させることを考えていると、以前は気づきもしなかった視点が湧いてきて…いつのまにかただの元の文章の「コピー」ではなくて「ちょっと進化版」が出来上がっているのだ。

学術研究とは知的フロンティアを少しずつ広げていく仕事だというが、その一端を垣間見た気がした。(自分がそのフロンティアの足元にも立てていないことは言うまでもない。)

考えれば大学院は自分の専門を深める場所。

これまで自分の専門とは何か、それを深められているか、という質問を何度も自問して答えを出せなかったが、「俺の専門はこれだ!」と一足飛びに決まるものではなくて、こうやって溜まっていく自身の思考の蓄積と自身が持つ関心や直感とを摺り合わせる中で少しずつ決まっていくものなのかな、と合点がいった。

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