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謝罪は相手の受諾なしには成立しない - 慰安婦問題に関する日韓記者発表に関して

数日前となりましたが、12月28日に帰国しました。

キャンパスアジアアプログラムでの1年半の中国・韓国での留学生活が終わり、当面の間、日本に腰を落ち着けることになりそうです。

先日、苦しみ抜いた北京大学の修士論文も無事提出でき(中国経済と中所得の罠に関する政策分析を行いました)、日本・シンガポール・中国・韓国と4カ国にわたった大学生活もついに終わったことになります。あとは3月の東大の卒業式を待つのみ。

奇しくも私の帰国と同じく28日、慰安婦問題に関する日韓外相による共同記者発表が行われ、その影響もあってか帰りのタクシーでは運転手さんに慰安婦問題で怒られ(初体験!)、この3年間、日中韓の関係のあり方を考え続けてきた身としては忘れ難い日となりました。

韓国政府からのコミットメントを引き出したという点において、私は今回の共同発表を大きく評価します。これは、慰安婦問題だけに対してだけではなく、その他の歴史問題に関わる日本政府の関わり方に大きな影響を与えうる一歩だと思っています。

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【謝罪は相手の受諾なしには成立しない】

キャンパスアジア生としての3年間、私たちは如何にアジアの歴史と向き合うべきなのか、という問いに度々ぶつかりました。

それぞれの国にはそれぞれの見方がある。その中で「日本国内の論理」を振りかざすだけでは、議論は平行線を辿るだけです。私が中国や韓国の論理に納得ができないように、彼らには日本の論理は通用しない。

日本が過去に謝罪をしてきた、と主張するのは簡単なことです。例えば、今年8月に発表されたいわゆる「安倍談話」や、それと引き合いに出される「河野談話」「村山談話」を通して、日本は謝罪の意を明確に表明してきました。

では、なぜ今になっても問題が残っているのか。

様々な説明があることは承知した上で敢えて言い切るならば、それは、従来の「談話」があくまで日本政府による一方的な声明に過ぎなかったからです。たまたま終戦50周年や70周年という節目の年に、日本政府が突発的に「謝罪」を表明したとしても、韓国や中国の社会はそれを受け入れる準備もできていないし、受け入れる義理もない。

仮に反応があったとしても、せいぜい「あ、そう?でも、それは当然のことだからね」と軽く流されるのが関の山です。日本の謝罪を受け入れることはそれぞれの国の国内政治を鑑みるとそう容易なことではありません。それどころか、逆に、日本のリーダーが靖国神社に参拝するといった分かりやすい(批判しやすい)行動を取ってしまうと、「やっぱり、この間の謝罪も口だけだったんじゃないか」と、過去の謝罪は無かったことにされてしまいます。

とはいえ、日本人の目からすると、国民が選挙を通じて選んだリーダーが公式に謝罪していることに変わりありません。だから、再び日本が謝罪する必要はないと考えるのも、また理解できる事です。

結局、これらの談話をどのように捉えるかについて、双方は都合のいいように解釈したまま、歴史問題は宙に浮いてきました。

国際政治の世界においては、時に、外交官同士がお互いに都合の良い解釈ができる文言を探り当てることで、呉越同舟の状況ながらも問題解決が図られることがありますが、そうこうするうちに、日本・中国・韓国の歴史問題においては、「プロの論理」だけでは解決ができないほど、論理と感情が入り乱れ、世論も巻き込んで問題がこじれてしまったのです。

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【「アジア女性基金」が生んでしまった感情のねじれ】

慰安婦問題に対する日本の取り組みを考える上では、「アジア女性基金」という先例があります。村山内閣という連立政権だったこともあり、日本国内のリベラルの支持も得て、日本政府と国民が一体となって取り組んだ試みでした。

元慰安婦の方々には「償い金」以外にも、首相の署名の入った手紙も手渡されるなど、日本としては国内政治を勘案するとこれ以上ない程の努力の上に成り立った取り組みでしたが、結果論で言えば、この基金も「韓国の論理」では受け入れられませんでした。

この取り組みが韓国社会で受け入れられなかった理由は、挺身協(慰安婦関連の利益団体)など韓国国内の問題が大きいです。

日本人からすれば、謝っただろう、「日本が謝罪していない」と攻め続けるのはお門違いだ、という感情も沸き起こってきます。

でも、実際問題として韓国国内では全くもって受け入れられていなかったわけで、問題は根本的には解決できていなかったのです。

日本の論理では解決したと主張することはできるけれど、それだけで韓国の国民感情を説得することはできません。

逆に、日本人から見ると「謝罪した」、韓国人から見ると「謝罪していない」、というねじれ関係を生んでしまったという点で、相手の受諾のない謝罪は両国関係を疲弊させてしまった側面もあるのではないでしょうか。

こういった観点からも、繰り返しになりますが、今回の発表は韓国政府とも「最終的かつ不可逆的に解決されることを確認」したという点で大きな前進だと思っています。

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【過去を忘れず、未来につなげる】

とはいえ、すでに多くの批評が出ているように、今回の発表を持って事態が解決されたと見るのは時期尚早です。

韓国政府の受諾によって、日本政府の謝罪行為は成立したものの、韓国社会全体はそれを受け入れるには程遠いでしょう。日本でも報道される韓国内外での「慰安婦像」の建設も止めることはできません。なぜなら韓国政府が民間団体の行動を制限することはできないからです。

それに対し日本国内においても、韓国国内での止まらない糾弾に反発し、また今回の声明で「妥協」した日本政府にも批判の声が上がるであろうことは想像に難くありません。

それでも、日本国民である私たちに出来ることは、この声明を少しでも実りあるものとなるように願いながら、どうやったら我々は前に進めるのか考え続けることではないでしょうか。

それは、謝罪を持って「問題は最終解決した」からとこの問題を忘れることなく、未来に同じ過ちが繰り返されることのないように願い続けることでもあります。

今回の声明でも、象徴的な意味で慰安婦像の撤去が取り上げられていますが、それが現在のパククネ政権には困難な行動であることは明白です。

日本人として私もこの慰安婦像が撤去されてほしいと願っていますが、過度な期待をしすぎず、「当面は許容すること」が現実的であり、また長期的には感情のこじれを解決することに繋がるのではないか、というのが私の意見です。

慰安婦問題が存在したこと、それが多くの女性の尊厳を傷つけたこと、は否定することのない事実です。

そこで、日本人側が「慰安婦像」を前に、韓国人側に歩み寄り、「確かに、日本の行為は許されるものではなかった。だから、一緒にこのような被害が発生しないような未来を作っていきましょう」と言うことができたら。

現状、慰安婦像には二つの意味が込められています。それは、過去を忘れないという戒めと、現在の日本に対する感情的な糾弾です。

日韓政府の共同声明が出た今、後者を強調するだけでは慰安婦像の建設も意義を見失ってしまいます。そこで、日本人の方から、少しでも両国が意見を共にするはずの前者に焦点を当てていくように働きかけることができれば。

結果的に、慰安婦像を建てること自体の重要性も薄れていき、両国が建設的に前を向いていける。キャンパスアジア生として、そのような未来を訪れることを願ってやみません。

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年の瀬の投稿としてはいささか重い投稿となってしまいましたが、自身のキャンパスアジア生活の集大成の意味も込めて筆をとりました。

最後までお読みくださりありがとうございます。皆様、良いお年をお過ごしください。

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