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乱読のすゝめ【グランドシャトー】

私が初めてその駅に降りたのは1991年の2月、凍えるような寒さの日であった。極度の緊張を抱きながら降り立ったその駅はまだ子供だった私にはあまりに猥雑としていて衝撃的だった。浮浪者然としたピンサロの看板持ち。ピンサロ、ヘルス、オーラル、アナル。今では考えられない話だが普通にそんな言葉が目に飛び込んでくる街中。朝早いというのに混雑も汚らわしく思えた。
そしてその日は私にとって灰色な三年間を過ごすことが決定させた日でもあった。私はその駅の近隣の高校の試験に合格した。
それが今でも続く、私と京橋との縁の始まりであった。

グランドシャトー 高殿円

世の中には、読まないといけない本、買わないといけない本というものがある。私にとってこの本はそういう存在であった。面白いか否かは二の次である。
京橋にグランシャトーというキャバレーが昔あった。京橋と言えばグランシャトー、グランシャトーと言えば京橋。それぐらいの存在である。そのグランシャトーをモデルに書かれた小説、読まずにおれようか。
とは言え、私が成人した時にはキャバレーなど斜陽産業だったし流石に行ったことはないのでその部分に懐かしさは感じないだろう。

若くして父を失い、不遇な身の上で一人大阪に出て夜の世界に身を投じた若い女性がグランドシャトーでルーとグランドシャトー不動のNo1、真珠のふたりのホステスが人生の目標を見失いつつもキャバレーと運命を共にする話である。
私にとって久しぶりに読んだ小説であるが、キャバレーという舞台を華やかなものではなく泥臭く庶民的にこれぞ大阪キャバレーと言わんばかりの昭和の匂いが立ち込めたものであった。ただその昭和の匂いの中に不思議な気品がある。その気品はNo1の真珠の生き方が欲がなく凛とした生活の表れなのかもしれない。
真珠は亡くした子に寄り添うように生き、ルーに子への想いを重ねたのかもしれないし、ルーは自分を寄り添い守ることの出来なかった母と離れ、ルーを寄り添い守る母の役割を真珠に求めたのかもしれない。
しかし互いに詮索することも語ることもなく日々を過ごす。夜の掟のようなものが物語を支配する。
しかしここまで街並みが想像できる小説は珍しい。グランドシャトー、駅前、桜ノ宮、中崎町、天満。よく知った場所ばかり。聖地巡礼の必要など何もない。もちろんあくまでモデルとして書いてあるんだが、字面から建物が思い浮かぶ。
真珠の葬儀で京橋が喪服の高齢男性で溢れたときの話など、そんなあったなと誤った高校時代の記憶が蘇ってきたほどだ。

明らかに京橋のグランシャトーをモデルに描かれた本作ではあるが、ルーがグランドシャトーで働き始めた昭和30年代半ばにはグランシャトーは影も形もない。あそこ意外と新しくキャバレーが斜陽産業と言われ始める70年代の開業である。じゃあ僕たちが学生時分に聞いていた「あそこには70代のばあさんがいる」という噂。そのばあさん達はいつからいくつから働き始めた人たちなのだろう。開業当時から40代でなければ計算があわない。
そうあそこのキャバレーは開店当時から大阪の庶民的なキャバレーだったのだ。
作品の冒頭で72歳のルーが啖呵を切り踊り狂う魑魅魍魎の宴こそが私が抱いていたキャバレーの姿である。

グランシャトーのキャバレーは閉店してしまったが、大阪にはまだ数店、キャバレーが残っている。行ってみたいと思いつつも実現しないままだ。さていつ行こう。

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