詩「跡形」を公開しました

喪失に対して、いま考えていることを書いた詩です。

以前から思っていたことを、3月10日に書き、翌日に推敲したもの。結果的に誤字脱字以外は直さなかった。
本当は、3月10日と11日の変わり目くらいに公開したかったのだけど、
体力的に叶わず、11日の夜になってしまった。

そうしたかった理由は、何か特定の一つにフォーカスして書いたわけではないからだ。
今年は9年目であり、75年目であり、25年目であり、97年目であり、3年目であり、4年目であり、2年目であり、それから…
大きな喪失は数えきれないほど過去にあり、そのそれぞれをその日に悼めばそれでいいというものでないと思っている。

それと同時に、一人ひとりにとっての大きな喪失とは、人の数だけあるはずだとも思う。
それがたとえ、天寿を全うした、と紋切り型に語られる類のものであっても、奥底にある悼む気持ちは違わないのではないか、と思うのだ。

人の存在の大きさを比べられないのだから、
その喪失の大きさも比べられないものではないか。

それと同時に、祈りもその時だけのものではないとも思っている。
大切な存在はきっと、いつも私たちのそばにいる。
刺激的なことに振り回されず、そのことに向き合うことが、悼むことなのではないだろうか。

こうして作品の解説で込めた思いをこれでもかと書いてしまうのは、
正直、ダサいと思う。
けれど、大切だと思っていることだから、2回書いた、ということで。

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