3年目というスタートライン。

僕は今「タイタンの学校」というお笑い芸人を養成する(?)要素を含んだ学校を作る仕事に携わっています。何屋として関わっているのか?というと何屋というのは難しく、企画もするし、運営もするし、広報もするし、人事も雑用もするし、講師っぽいことをやることもあります。2018年2月頃から携わり始めました。今日はなぜ僕が「タイタンの学校」にジョインしたのかというところから立ち上げまでくらいの話をさせて頂きたいと思います。

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(写真:2018年2月 小林君との打合せ風景@タイタン本社)

僕は株式会社InterHitsという会社をノリで立ち上げてしまって12年くらいでしょうか。2008年から会社を経営しています。元々は人材サービス系の会社で企画、人材育成、面接採用、ソリューション開発的な仕事をしていました。独立して以降、当初は人材系の仕事をやることが多かったのですが、最近は自分が好きなジャンルの業界の仕事に傾倒していることが多いです。

「スクール事業」との接点を持つきっかけなんですが。2012~2015年くらいだったでしょうか、CASIOさん(G-SHOCKなどを作っている総合家電メーカー)にお世話になっていた時期がありまして、その時携わらせて頂いたプロジェクトの一つに「音楽教室の企画運営」というものがありました。このプロジェクトを運営していくにあたり、作曲家と一緒にコンテンツを作ったり、講師の先生を育成したり、マニュアル・企画・仕様書作成、営業までをトータルで見させて頂いていました。大きい会社でのプロジェクトということもあり、大変なことも多かったですが僕にとって非常に大きな経験となったプロジェクトであったことを覚えています。(大きな会社でのミニマムなプロジェクトって大変ですよね・・・って話はまた次の機会に笑)

都合3年くらいこのプロジェクトに携わることになるのですが、取り組んでいる中で「学校・スクール」という仕事に対する興味関心は自分が思っている以上に高まっていました。いつかまた「学校・スクール」の仕事をやりたいという思いをここで燻ぶらせていたのかもしれません。

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(写真:2013年10月 CASIO音楽教室@都内某所)
※個人情報保護の為顔にモザイクを掛けさせて頂いております

CASIOのプロジェクトを離れて3年ほど月日が経ってでしょうか。僕の大学時代の友人でもあり、タイタンの子会社の社長でもある小林君と年に一度恒例で開催している麻雀大会をしているときにこの「タイタンの学校」のプロジェクトの話を聞きました。小林君が中心となって進めているがどうも大変な状況らしい、と。

ちょうどその頃、僕はといえば運営していたプロジェクトの一つが終息の方向で進んでいて、次の仕事を検討していたところでした。元々教育・スクール事業に興味関心があった私にとってその小林君の話はとても面白そうな話に聞こえました。

「学校、作ってみたい。」

話を聞いていると学校の運営を任せられる人を探している状態ではあるようで、もしかしたら・・・と思い「手伝わせてもらえないか」と小林君に提案をしました。そこからも紆余曲折あるはあるんです。業界経験者ではないことや社外メンバーを入れることの是非など、超えていかなければならない障害は少なくありませんでした。それらの課題に対し少しずつ折り合いをつけ、晴れてプロジェクトに参画することに成功。それが2018年2月頭の話でした。

恐ろしいのはここから。どうも開校は2018年の10月(残り1年切ってる!!)らしいということがわかり…。その時点で進行していた内容が記されている数少ない資料を改めて小林君と二人で全て読み込み、議論し、それらの資料を基にした企画を再構成し改めて太田光代社長、菅賢治プロデューサーにプレゼンしたのが2月末の話。

時間がとにかく少なかったので急ピッチで企画の基礎を固めたわけですが…恥ずかしながら初めてのプレゼンはとにかく萎縮していたのを覚えています。

こんせぷと

(写真:2018年2月上旬 資料「タイタンの学校」より抜粋)

上記資料は僕がジョインした当初(つまり2月初旬)のコンセプト案。社長のオーダーは所謂「芸人の養成所」ではないタイタンならではの学校。吉田松陰先生を尊敬しているという太田光代社長のイメージは寺子屋。

タイタンが学校を作るのにただ芸人の養成所ではないものを作ろうとしている…?

太田社長が強く訴えていた「芸人を目指す人の全員が芸人になれるわけじゃないからいろんな能力を伸ばすべき」という考え方や「一般の人たちにも芸人・タレントの持つ能力が必要になる」という話、その他にも太田社長の学校の考え方についてのミーティング時の録音音声や書籍、インタビューなど、何度も何度も反芻して、小林君と考えをすり合わせ、どうやって企画として昇華させていくか議論を重ねました。その結果、コースを二つに分け、芸人を養成するコースに一般教養を一緒に学ばせるというコンセプトを作り上げました。

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(写真:2018年2月下旬 林作成 タイタンの学校打合せ資料より抜粋)

僕もそうはいってもそれなりに企業向けのプランをいくつも作ってきた経験と自負があります。それでも芸能人なんてあまりお会いしたことないし、ましてやプロダクションの社長、ましては太田光代さん、菅賢治さんなんてビッグネームです。テレビの画面の向こう側で見たことがある有名人に対してプレゼンを行うなんて経験は今までなかったものですから、流石に緊張しました。これまで経験してきた企業の役員や社長相手のものとはまた違った緊張感があり、まだこの時はプレゼンテーションについて小林君に頼りきりだったたなあ、と感じています。

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(写真:2018年7月 太田光代社長、辻仁成講師 打合せ@タイタン本社)

小林君の懸命のプレゼンの甲斐もあり、無事太田社長承認を得て一安心、と思っていたのが大間違い。ここからがまた怒涛の日々の始まりです。講師の先生方との打ち合わせ、調整。またパンフレットの制作、講義会場の手配、プレイベントの制作、説明会の実施、面接の進行管理実施、と何とか10月の開校に全てを間に合わせられるように業務を進めていく日々。タイタンの内勤の皆様にもご協力いただいて何とか進行をしていました。

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(写真:2018年3月 林作成 山中さんインタビュー資料より抜粋)

中でも一番大変だったのはパンフレットのインタビュー記事の制作です。ライターの仕事など当然やったことがないわけなんですが、僕と小林君しかメンバーがいないのでどちらかがやるしかないわけです。企画系の仕事はどちらかといえば僕の業務の範疇ということもあり、「書く」関係の仕事は僕が引き受けることが多いので担当したのですが、ただ「書く」仕事と違い、インタビューにはまた別の大変さがあることを思い知ることになります。

初めてのインタビューが元フジテレビの山中秀樹アナウンサーだったのですが、アナウンサーといったらインタビューのプロなわけですよ。プロ相手にインタビューするっていう独特の緊張感は特別なものがありました。インタビューが終わった後も記事制作でも小林君に繰り返しダメ出しをされたのをいまだに覚えています。非常に苦しい仕事でした(笑)

ほわいと

(写真:2018年2月 打合せ時のホワイトボード@タイタン本社)

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(写真:2018年5月 打合せ時のホワイトボード@タイタン本社)

企画書に準じて講義の骨格を作っていきます。作成した資料を基に「タイタンの学校」に必要なものは一体何かを議論します。結果、打ち合わせの時はホワイトボードが真っ黒になるまで小林君と二人で情報を書きなぐることになります。そうして出来上がったものを再度資料化し、各講師の先生方と打合せ・相談したりしつつ各講義を構成していきました。

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告知イベントとしてプレ授業を太田社長にお願いしたり、応募がある志望者の面接を実施したり、本当に目まぐるしい日々ではありましたが、何とか諸々の準備を終わらせ1期の開校に漕ぎつけたわけです。

・2018年10月~2019年3月 1期生
・2019年4月~2020年3月 2期生

もうこれが2年も前のことになるとは中々思えません。気が付けば1期と2期が終わりをつげ、もう3期生の募集も終わろうとしています。

2年間やる中で思う通りに行ったところ、思った通りに行かなかったところ色々ありました。時には小林君とガチトーンで喧嘩したり、もうプロジェクトから自分が抜けたほうがいいんじゃないかと思ったこともありました。それでも何とか走り続けてくる中でようやく見えてきたものというのも少なくありません。業務の幅も少しずつ広がってきました。

3年目は改めてスタートラインに立つ気持ちでこのプロジェクトを進めていきたいと思っています。それは関わってくれている全ての人に対して期待に応えていくこと。そして通ってくれた1期生、2期生のメンバーの皆様の中でも最後まで通ってくれた人、途中で来れなくなっちゃった人、それぞれが様々な思いを持っていらっしゃると思いますが、一人一人が通っててよかったなと思ってもらえる学校で在り続けられるように改めてスタートラインに立って頑張っていきたいなと思う次第です。

スタートラインということで立ち上げの頃の記憶をちょっとたどっておきたいなと思い乱筆ではありますが自分の記憶の整理を兼ねて書き記してみました。

これから3期で会うみんなとの出会いも楽しみですし、3期以降でお会いするかもしれないあなたと会うのも楽しみです。

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