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三井と神社(企業と神社その1)

三井家と伊勢国

三井高利・かね夫妻像(山本宗川筆・享保16年)

江戸時代の豪商、近代の財閥と知られる三井氏の元は近江六角氏に仕えた武士で、三井越後守高安の時代に主家六角氏が織田信長によって滅ぼされると伊勢国に移り、高安は伊勢商人や伊勢御師などと血縁や地縁を結び、高安の長男、三井高俊の代に伊勢松阪に住居し、酒や醤油の販売や質屋を営み、父高安の名乗りである越後守から「越後殿の酒屋」などと呼ばれていたが、時の松坂城主吉田重治より改名を命じられ「越後屋」を名乗った。
高俊は商売への関心が薄く、家業は妻である殊法が切り盛りした。殊法は松阪近郊の丹生の伊勢商人永井家の出であり、商才に優れ、仕事熱心で信仰心が篤く、倹約家という生き方は母を通じて子供達に受け継がれた。
現在の三井グループの祖である三井高利は高俊と殊法の四男であり、12歳で長兄の商売見習いで江戸へ行き、母譲りの商才を発揮したが、28歳で母の孝養の名目で松阪に返され、以降52歳まで江戸で得た資金を元に金融を営みながら江戸再進出のため蓄財と子息の商学教育に励み雌伏の時を過ごした。
そして、延宝元年(1673)、「三井越後屋呉服店(三越)」を開業し、「店前売り」「現銀(現金)掛値なし」の新商法で越後屋は大繁盛し、呉服、両替を主業として現代まで続く三井グループの礎を築いた。

三井家と伊勢神宮・伊勢御師

高安の次男である元吉は3歳のときに伊勢山田の伊勢御師・落合藤太夫吉次の養子となり、家督相続後、落合七太夫を名乗り以降、元吉の子、落合権太夫吉久に受け継がれ明治維新での伊勢御師廃止までの落合氏は三井家の伊勢参りの取次や湯立神楽・伊勢太々神楽の斎行を行った。
お伊勢参りは江戸時代に何度も流行し、全国で伊勢講が組織された。三井家では高安・高利の記念祭などで伊勢参詣や御師落合家において太々神楽奉納を行った。江戸時代を通じて拡大した三井家では高利の子孫で三井十一家という共同体を組織し、江戸、京都、大阪に広がる家政・家業を統制しつつ、呉服部門や両替部門など各部門や本店(ほんだな)出入りの職方で組織された伊勢講を通じて祖地に鎮座する伊勢神宮を崇敬した。

三囲神社

三囲神社

三囲神社は宇迦御魂之命を奉祀する神社で、三囲稲荷とも称される。元禄6年(1693)、江戸で旱魃があり、俳人宝井其角が「夕立や 田を見めぐりの神ならば」との一句を神前に奉ったところ、降雨があり、一躍雨乞いの神として江戸中に知られるようになり、日本橋の越後屋から鬼門(北東)に鎮座し、三井の鬼門除け、また社名の「囲」の字が三井の「井」の字を囲んでいることから三井守るという験担ぎとして篤い信仰を受けることになった。

享保元年(1716)、高利三男・三井高治、高利九男・三井高久、高利孫(三井北家)・三井高房が計画し、神祇管領吉田家より神社に正一位の神位を受け、享保12年(1727)には吉田兼敬より霊璽を当社に遷し、田を寄進し、境内を拡大させ社殿を改築するなど篤く信仰した。以来、三井家では三囲講を組織し、現在でも三越をはじめ、三井グループには三囲神社の分霊が奉祀され、三井グループ各総務部で組織される三囲会により当社でも祭祀がおこなわれている。

三囲神社三柱鳥居(三井邸より移される)
三越で実際に使用された銅壺の台石
三越池袋店にあったライオン像

境内には三井邸から移された三柱鳥居、三越で来客のために出すお茶の湯を沸かした銅壺の台石、平成21年(2009)に閉店した三越池袋店のライオン像など、三井グループにゆかりのものが多く点在している。
また廃仏毀釈や戦後の混乱による過程で、京都に鎮座した三井家の祖霊社である顕名霊社が平成6年(1994)に当社境内に遷座した。

各店舗の三囲神社分祠

日本橋三越本店の三囲神社

日本橋三越本店の三囲神社

大正3年(1914)9月21日に分祠された。
境内の活動大黒天は高村光雲の作という。
三井家では商売の神である大黒天と恵比寿天を特に崇敬している。

銀座三越の三囲神社

銀座三越の三囲神社(写真右)と出世地蔵尊

顕名霊社

顕名霊社

現在は三囲神社境内に鎮座する顕名霊社は没後100年を経た三井十一家の当主夫妻が祀られる三井家の祖霊社である。呉服商である三井家では養蚕の神である京都の木嶋神社(木嶋坐天照御魂神社)を信仰しており、宝暦元年(1751)に木嶋神社境内に社殿を建立したのが始まりとされる。明治維新を経て廃仏毀釈が始まると明治7年(1874)油小路の三井総領家に遷座した。同年、三井が東京に拠点を移すと東京においても顕名霊社が建立された。
廃仏毀釈が収束すると再び木嶋神社境内に遷座したが、明治42年(1909)に三井高安300年忌に際して下鴨神社南に六千坪の土地を購入し、神社が造営された。
大正14年(1925)には現在の旧三井家下鴨別邸が顕名霊社の休息所として建設された。
しかし、戦後財閥解体により下鴨の土地は国有化され、再び油小路の三井総領家に移されるが、昭和33年(1958)にその三井総領家邸も処分されるに至り、御霊璽は東京の顕名霊社へ移され、社殿は福井佐佳枝廼社に移築、別邸は京都家庭裁判所官舎、財務省、文部科学省などを経て平成28年(2016)から一般公開されている。
現在三囲神社境内にある社殿は明治7年(1874)建立の東京顕名霊社の社殿で、三井総領家の造営で遷座を繰り返し、戦災を逃れ西麻布の総領家邸で奉祀されたが、11代三井高公が平成4年(1992)に亡くなると邸宅は江戸東京たてもの園に移築され、平成6年(1994)に当社境内に遷座した。

[参考文献]
▼三井文庫・三井記念美術館『三井高利と越後屋 -三井創業期の事業と文化』令和5年
▼三井文庫『資料が語る三井のあゆみ 越後屋から三井財閥』平成27年
▼神社新報社『企業の神社』昭和61年

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