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平野啓一郎「マチネの終わりに」を読んで

 平野啓一郎の小説を読むのは初めでした。また、恋愛小説を読むのは久しぶりでした。先程読み終わったところです。
 還暦を過ぎて、このような恋愛小説と出会うと、自分自身の体験と重ね合わせながら読んでしまいます。
 断片的な記述になりますが、今思うことを書きます。


始めに

 主人公は、クラシックギタリストの男性と、国際ジャーナリストの女性。
時代背景が、サブプライローンに始まる金融危機、イラク戦争、東北大震災、音楽業界の不況。私が会社員時代の日本の30年間に及ぶ低迷の時代と重なりました。
 作者のサブプライローンに関する理解は、まったくその通りと思いながら、読み進めした。

理解し合うこと

 主人公二人が、何回か会っただけで、お互いを分かり合い、かけがえのない存在であると意識することに、不自然さはありませんでした。相手の表情、態度、発する言葉で、その人の生きてきた道程を理解し、相手への敬意や愛情を感じ合えるのです。
  別々の人生を歩み出しても、お互いに、出会って話した会話を何度も反芻していく。時を超えてその時の思い出が生き続ける。

過去への後悔

 過去の出来事、そのときの選択により、その後の生き方は変わってしまう。誰しもあの時にこうしておけばと、後悔する。別の人生があったのではと。
 人生は、時間とともに、いろいろなことが蓄積されていく。そこに幸福や不幸が重なっていく。
 久しぶりに、愛した相手と会い、過去と向き合ったとき、どう対処するか。その答えの一端が、この作品にはあるように思います。

愛の多様性

 ポストイットをしておいた文章を読み直して、気が付くことがありました。
 この作品を通して思ったことですが、愛には多様性があると感じました。
 愛の対象は、目の前にあるものだけではない。自分の心に愛の存在さえあれば、愛の対象が近くになく、過去のものであっても、孤独ではないのでは、ということです。

未来は過去を変えている。
 「未来は過去を変えている」
 この言葉は、この小説の中で出てくる言葉です。 
 私には、作品にあるような出会いはありません。  ただ、時々、音信不通になってしまった、何人かの友のことを思い出し、あの時こうすればよかったと後悔することがあります。
 会うことはありません。しかし、出会って共有したことは、私にとって大切な時間でした。 
   これからも何度も思い出し反芻していく中で、彼らとの出来事が、私の人生の中で意味付けられ、価値のあるものとして昇華されていくかもしれない。そう思いました。


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