人間の生き方

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452―1519年)は、フィレンツェ共和国(現在のイタリア)のルネサンス期を代表する芸術家で、史上最高の画家である。そして、人類史上で最も多才な人物と称されている。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェ共和国から、約20kmほど離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと、農夫の娘であったカテリーナとの間に、非嫡出子として誕生した。

 非嫡出子(ひちゃくしゅつし)とは、法律上の婚姻関係にない、つまり、結婚をしていない男女の間に生まれた子のことをいう。

 1466年頃に、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあったヴェロッキオが運営する工房に入門した。

 画家としてのキャリアの初期には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後に、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアなどで活動して、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。

 レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い。

 とくに、その絵画作品中もっとも有名で、もっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ・リザ』と、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に比肩しうる絵画作品は、ミケランジェロ・ブオナローティが描いた『アダムの創造』以外には存在しないといわれている。

 また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』も、文化的象徴と見なされていて、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書、Tシャツなど様々な製品に用いられている。

 現存するレオナルドの絵画作品は、15点程度と言われていて、決して多くはない。これはレオナルドが、完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに、長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる。

 それでもなお、絵画作品や、レオナルドが残したドローイングや、科学に関するイラストが描かれた手稿や、絵画に対する信念などは、後世の芸術家へ多大な影響を与えた。

 このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも、20歳余り年少の、ミケランジェロ・ブオナローティだけであった。

 レオナルドは、科学的創造力の面でも畏敬されている。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。

 レオナルドが構想し、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化されて、製造業の黎明期をもたらした。

 また、解剖学、土木工学、光学、流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった。

 それに、発生学の研究も行っていた。更に、眼を調べることで、光と眼鏡の原理も解明していた。但し、そんな非凡な彼だが、外国語と暗算が苦手という側面もあったという。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452―1519年)は、フィレンツェ共和国(現在のイタリア)のルネサンス期を代表する芸術家で、史上最高の画家、そして人類史上最も多才な人物と称される。

 人間の生き方について彼は語っている。
「人間はやり通す力があるかないかによってのみ、称賛または非難に値する」

 さらに彼はこういう
「シンプルさは究極の洗練である」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?