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映画鑑賞『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督

実家のホームシアターのスクリーンが経年劣化で歪んできたので、電動スクリーンに買い替えてもらって、今日は柿落とし。100インチのスクリーンで、何を見ようかと思ったが、最近気になっていた、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』をじっくりと鑑賞した。以下、ネタバレありなので、観た方のみ読み進めてください。感じたことをツラツラと書いていきます。

この映画はさまざまな人の世界線が謎めいたまま、シンクロしていく印象を受けました。舞台演出家でもあり俳優でもある家福と、妻であり脚本家でもある音、この夫婦はセックスをしながら物語を紡ぎ出します。そのセックスをしながら紡ぐ物語、空き巣の女子高生の話、そして家福が多言語舞台を作るチェーホフの『ワーニャ叔父さん』、家福の愛車SAABを運転する謎のドライバーみさき。共通するのはそれぞれが大きな傷を抱えているということ。家福と音は愛する娘を亡くしているし、妻の不倫を知ったのちに、妻までも亡くしてしまい、切断された物語の続きを語れずにいる。この死による物語の切断。はじめはセックスにより語られた物語を家福が語り直すのを放棄したことによって、妻の音がなにかを察知し、思わしげに夜に話があると出かける前の家福に告げる。家福が帰るのを躊躇していたが、帰ったら妻が倒れてその後亡くなるという物語の切断がおきる。切断された物語を、傷ついた私はどのようにまた紡いでいくのか?この映画は傷ついた人々が傷を乗り越えてまた物語を紡いでいく、その過程を描いているような気がする。少しずつ傷を抱えた者たちが前に進もうとしている。多言語舞台の人々がお互いに全く違う言語を語りながら、シンクロして、物語が躍動していく。子どもを流産してしまった韓国人のダンサーは、深い傷を負ったが、また多言語舞台で手話を通して、傷を乗り越えようとしている。家福の妻の音と不倫をしていた俳優の高槻は物語の続きを語るがそれも未完で終わる。その後に高槻が語った言葉、

「他人の心はわからない。本当に他人を見たいと望むなら、自分の心をまっすぐ見つめるしかない。ぼくはそう思います」

他人の気持ちをわかった気になっていないか?他人の心はわからない、これは本当に真実なのに、軽視されていることのような気がしている。いかに世間には他人の気持ちがわかった気になっている人が多いことか…。

高槻が事件で失脚し、みさきと家福は舞台をやるかどうか考えるモラトリアム期間にみさきの故郷を訪ねる。みさきの傷と家福の傷がシンクロして、妻に言いたかった物語が出てくる。
 
最後は家福は高槻の代役、本来自分が演じるはずであった、妻とのテープでのやりとりを何回もしている、あの舞台を演じ切る。

それを観ているみさき。

そして、傷を乗り越え、韓国で、あの家福のSAABを乗っている満足気なみさきのシーンで物語は終わる。

傷を乗り越えるというのはどういうことか?切断された物語が、また動きだす機微。映画の醍醐味を味わった気がしている。

家福の妻の音は、とても魅力的だった。彼女もまた娘を亡くしたという深い傷を抱えていた。そして家福が妻の物語を語らなかったという違和感とともに急逝してしまう。

大切な人の死を通して、物語が切断してしまう。切断された思いがまた語られるには、同じ思いを抱えた人の語り得ぬ共感、そして自分の傷との向き合いは不可欠なのではないか。痛い傷口を見て見ぬフリをするのではなく、恐れずにじっと見る。そこからまた語り出すなにかが始まるのではないか。

多くの人が傷を抱えて生きている。それでも生きることはつづく。

傷の本質を見つめて、ヒリヒリしながら、自分の心と向き合っていく。それには勇気がいる。傷は見たくない、逃げたい。逃げるのも人間。それでも、傷を見つめて乗り越えられるのは、同じように傷を抱えた人の物語が現在進行形であらゆるところで進んでいて、そんな傷を抱えた人の物語が、自分の物語とシンクロするからだ。他人の傷を見て、自分の傷が少しみられるようになって、そしてシンクロしながら少しずつ乗り越えていく。

舞台というフィクショナルな世界と、現実が交錯しながら、登場人物たちは虚実の間に出ていき、傷を癒していく。虚と実が深く混じり合いながら、傷ついた、切断された物語が、また語られようとしていくのだ。

良き映画鑑賞でした。

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