聖と俗の境界線:金比羅山、ジャズクラブ、そして堕落の美学



## 1. 金比羅山への旅:現成公案との出会い

僕は、ある夏の終わりに金比羅山に登った。そこで見た光景は、どこか現実離れしていて、でも確かにそこにあった。まるで、誰かが僕の記憶の中にそっと滑り込ませた夢のような一篇のシーンだった。

朝もやの中を歩き始めた時、僕の頭の中には「聖なるもの」についての漠然とした期待があった。神社、お参り、厳かな空気。そんなものを想像していた。でも、実際に目にしたのは、もっとずっと複雑で、矛盾に満ちた世界だった。

参道を上がっていく人々の中に、僕は不思議な光景を目にした。厳かな表情で手を合わせる老婆の隣で、若い男が携帯電話でパチンコの攻略法を検索している。神社の鳥居をくぐりながら、カップルがキスをする。そこかしこで、聖なるものと俗なるものが、まるで水と油のように混ざり合っていた。

でも、本当に水と油なのだろうか?

その瞬間、僕は道元の「現成公案」という言葉を思い出した。全ての現象は、そのままで真理を現していると道元は説く。つまり、この矛盾に満ちた光景こそが、真理そのものなのかもしれない。聖と俗が入り混じる様は、ある意味で宇宙の真理を体現しているのではないだろうか。

## 2. ニューヨークの夜:有時の中で

僕は昔、ニューヨークのとあるジャズクラブで、似たような光景を目にしたことがある。それは今から15年ほど前のこと。僕が30歳になったばかりの頃だった。

煙の立ち込める薄暗い店内で、サックスの音が鳴り響いていた。その音は、まるで祈りのようだった。低音が僕の腹の底を震わせ、高音が頭上の空気を切り裂く。演奏者の指が楽器を撫でる様は、まるで僧侶が数珠を繰るかのようだった。

客たちは、ウイスキーグラスを片手に、目を閉じて音に身を委ねていた。酔っ払いもいれば、真剣な表情でメモを取る音楽学生もいる。派手な化粧の女性が、目を閉じて微笑んでいる。

その時僕は思った。これは俗なのか、聖なのか。

ジャズクラブという、一見するととても世俗的な場所で、僕は何か神聖なものを感じていた。それは説明のつかない、でも確かに存在する何かだった。

今、この経験を振り返ると、道元の「有時」の概念が浮かんでくる。道元は、存在と時間は不可分であり、全ての瞬間が完全な実在であると説いた。あのジャズクラブの一夜も、聖と俗が交錯する完全な一瞬だったのかもしれない。その時、その場所で、全てが完全だった。

## 3. バタイユと道元:境界線の曖昧さ

バタイユという哲学者がいる。彼は、聖と俗は対立するものではなく、むしろ表裏一体のものだと考えた。僕はその考えに、どこか共感する。

バタイユは言う。聖なるものの中には常に俗なる要素が含まれており、逆もまた然りだと。それは、陰と陽のように、互いを規定し合い、互いの中に相手の要素を含んでいるのだ。

この考え方は、奇妙なことに道元の思想とも通じる。道元は「正法眼蔵」の中で、「迷いと悟りは不二」であると説いた。迷いの中に悟りがあり、悟りの中に迷いがある。聖と俗も、同じように不可分なのかもしれない。

金比羅山の参道で見た光景も、ニューヨークのジャズクラブで感じた雰囲気も、結局のところ同じものなのかもしれない。人間の営みの中で、聖なるものと俗なるものは、常に寄り添い、時に融合し、そしてまた離れていく。それは、まるで潮の満ち引きのようだ。

## 4. 日本的な聖俗観:只管打坐の実践

日本には古くから、聖と俗を明確に区別しない文化があった。神道では、自然のあらゆるものに神が宿るとされる。山や川、木々や岩にも神性を見出す。

そう考えると、金比羅参りの途中でパチンコの攻略法を検索する若者の姿も、別の意味を持ってくる。彼は無意識のうちに、聖なる場所で俗なる行為を行うことで、両者の境界を曖昧にしているのかもしれない。

道元は「只管打坐」、ただひたすらに坐ることを説いた。この実践は、聖と俗の二元論を超越する一つの方法だと言えるかもしれない。坐禅をしている時、私たちは聖でも俗でもない。ただそこにいる。それは、まるでジャズの即興演奏のようだ。決められた和音進行の中で、演奏者たちは自由に音を紡ぎ出す。時に調和し、時にぶつかり合う。でも、そのせめぎ合いの中から、新しい何かが生まれる。

## 5. 現代社会における聖と俗:日常の中の修行

現代社会では、聖と俗の境界線はますます曖昧になっている。スマートフォンの中に、祈りのアプリと競馬の予想アプリが同居している。バチカンのローマ教皇がTwitterを使う。禅寺でヨガ教室が開かれる。

これらは単なる矛盾や堕落ではなく、むしろ人間の全体性を表現しているのではないだろうか。聖なるものを求めつつ、俗なる日常を生きる。その両極の間を行き来しながら、僕たちは自分だけの人生という曲を奏でている。

道元は、日常生活のあらゆる行為が修行であると説いた。茶を点てることも、薪を割ることも、トイレを掃除することも、全て仏道の実践となりうる。この視点に立てば、現代人の日常も、聖と俗が交錯する修行の場と言えるのかもしれない。

## 6. 個人的な聖性の発見:一枚の落ち葉の中に宇宙を見る

僕たちの人生も、そんな即興演奏に似ているのかもしれない。日々の生活の中で、僕たちは無意識のうちに聖と俗の境界線を越えている。

朝のコーヒーを淹れる瞬間。好きな本を読みふける時間。深夜のランニング。それらの何気ない瞬間の中に、ある種の聖性を見出すことはできないだろうか。

道元は「一塵の中に無量の仏土を見る」と説いた。つまり、一枚の落ち葉の中に宇宙全体を見ることができるということだ。同じように、日常の些細な行為の中に、聖なるものを見出すことができるのかもしれない。

金比羅山を下りながら、僕はふと思った。もし、この世界に「純粋な聖」や「純粋な俗」というものがあるとしたら、それはきっととても寂しいものに違いない。むしろ、聖と俗が交錯する日常こそが、真の豊かさなのではないだろうか。

## 7. エピローグ:居酒屋にて、宇宙を飲み干す

その夜、僕は山麓の小さな居酒屋で、冷えた生ビールを飲みながら、遠くに見える神社の灯りを眺めていた。隣のテーブルでは、浴衣姿の若い女性たちが、スマートフォンで撮った参拝の写真を見せ合いながら、はしゃいでいる。

カウンターでは、一人の中年男性が黙々と焼酎を飲んでいる。その姿は、どこか禁欲的な修行僧を思わせた。

喧噪と静寂、聖と俗。それらが交錯する風景の中に、僕は不思議な安らぎを感じていた。

ふと、バタイユの言葉が頭をよぎった。「エロティシズムとは、存在の連続性の中に非連続な存在である我々を溶かし込むことである」

そして同時に、道元の言葉も響いてきた。「諸法実相なり」。全ての現象がそのまま真理であるという教え。

僕は、もう一杯ビールを注文した。グラスを見つめながら、ふと思う。このビールの中にも宇宙が詰まっているのかもしれない。聖なるものと俗なるもの、それらが交錯する一杯のビールの中に。

## 8. 安吾流の結論:堕落の先にある真実

ビールを飲み干したその時、僕の脳裏に坂口安吾の言葉が響いた。「人間は、堕落するところまで堕落しきってしまえば、そこにまた新しい天地が開けるのだ」

安吾の「堕落論」は、戦後の混乱期に書かれたものだ。しかし、その言葉は今の僕の状況にも奇妙なほどしっくりくる。聖と俗の境界線にこだわり続けてきた僕は、ある意味で既成の価値観に縛られていたのかもしれない。

金比羅山での参拝客たち。ニューヨークのジャズクラブの客たち。そして今、この居酒屋で酒を飲む人々。彼らは皆、安吾の言う「堕落」の中にいる。でも、その「堕落」の中にこそ、真の自由があるのではないだろうか。

安吾はまた、「日本文化私観」の中で、「美しいものが美しいのではない。美しいと感じた時、そのものは美しいのだ」と述べている。これを聖と俗の文脈に当てはめれば、聖なるものが聖なのではない。聖なると感じた時、そのものは聖なのだ、と言えるかもしれない。

そう考えると、これまで僕が見てきた全ての光景が、新たな意味を帯びて見えてくる。金比羅山でパチンコの攻略法を検索していた若者も、ジャズクラブで酔っ払っていた客も、そして今、この居酒屋で酒を飲む人々も。彼らは皆、自分なりの方法で「聖なるもの」を求めているのかもしれない。

道元は「只管打坐」を説いた。バタイユは聖と俗の融合を語った。そして安吾は、堕落の先にある真実を見出した。三者三様のアプローチだが、根底にあるのは同じものだ。既成の価値観や二元論を超えた先にある、何か本質的なものへの希求。

僕は最後の一杯を注文した。喉を通るビールの苦みと共に、これまでの思考が溶けていくのを感じる。聖でも俗でもない。堕落でも悟りでもない。ただ、今ここにある「現在」。それこそが、僕たちの求めるべきものなのかもしれない。

夜が更けていく。明日もまた、聖と俗が交錯する日常が僕を待っている。でも今は、その境界線の曖昧さを楽しむことができる。それは一種の堕落かもしれない。でも、その堕落の先に、新しい天地が開けるのを僕は知っている。

最後の一滴まで飲み干したグラスを見つめながら、僕はつぶやいた。「乾杯、この素晴らしき堕落に」


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