心の中のお掃除とラマダンという月

毎年やってくるラマダン月。(イスラム教徒が毎年行う断食月)
今年は4月の中旬から始まります。

9年前、私がイスラム教徒に改心した時は、8月の暑くて、日昇時間が長い時期でした。


私たちはヒジュラ暦という暦に沿っていて、ラマダンという名前は、ヒジュラ暦の9月の事を指します。


毎月、新月が見えたら月が変わり、私たちは時計ではなく、太陽や月の動きで祈ったり、断食したり、祝ったり、施しをしたりして生活しています。


私たちイスラム教徒は、ラマダン月がやってくると、ここぞとばかりに善良な心で挑むぞー!
と心の中のお掃除をします。


何だかメルヘンな世界だと思われるのは承知ですが、ラマダン月は天国の扉が開き、私たちをそそのかす悪魔は足枷をつけられて、悪さが出来ないと言われていて、私たちにとって自分試しの月でもあります。

いつも私たちをそそのかす悪魔は足かせをつけられているので、
悪いことをしたら、それは自分自身の心の問題ですよ。気をつけて!
という事です。

日本でも相手を憎まず、罪を憎め!
なんて言葉がありますが、
イスラムの教えでも、悪は善で追い払え!
という言葉があり、たとえどんな悪い事をされても、相手を恨むのではなく、
そうさせた罪を憎みなさい。
という意味です。

天国の扉が開き、悪魔が悪さできないラマダン月に、私たちはたくさんの善行を行って、
心の強化(より良い人間になる為の訓練)に励みます。

ただ、もうすぐラマダンだから、ラマダン月に入る前に心をキレイにすれば良い。
なんて思っていたら、ラマダン月の最終日ぐらいにやっと、心が落ち着いてくるぐらいになりそうですよね〜。


心の中のお掃除って普段から気をつけていないと、なかなか出来るものではありません。


イスラム教徒には1日5回の礼拝が義務付けられていますが、私はこの時間が大好きです。
祈る時間を義務付けられているお陰で、9年間も祈り続けていると、私は何でも心をオープンにして縋るんです。


こんな事をかくと、確実に危ないやつだと思われるんだろうなぁ(笑)


例えば究極にお腹が痛くて倒れそうだったり、自分じゃどうする事もできない災害に見舞われた時など、人間はみんなとにかく祈ると思うんです。

実際、オーストラリアの森林火災で炎に追われる中ボートで逃げ切った人たちは、その間ずっと目に見えない何かに祈り続けていた、と言っていた映像を見たことがあります。


究極な所まで陥らないと誰かに助けを求めない。大半の人がそうなんじゃないかな?
これってすごく生きづらいです。


私は一日に5回お祈りをしているので、一日に5回縋ったり、自分の罪を後悔したり、願いを明確にしたり、自分自身を見つめ直しています。
とは言っても、毎回ゆっくりお祈りできている時間は少ないのですが。


ただ、この時間が人には欠けている部分なんじゃないかなぁって最近思う様になりました。


目に見えない物は信じない。
私は自分で頑張るの。
誰にも縋ったりしない。
そんなの恥ずかしいわよ!


頑張りすぎてしまう私たち人間は、どこかで何かに縋ったり甘えたりしないと、息抜きできる場所なんて、ないんじゃないかなぁと思います。


私の祈りは誰かに聞かれる訳でもなく、
目には見えないけれど、心の中で私が信じているお方に、無事に生きている事の感謝と、願いと、罪の後悔と、この世の平和を、毎日5回祈り続けて、1日を終える。


地に額をつけて、平伏し、私は何者でもなく、ただの人。
傲慢さを取り払い、謙虚で、私を生かしてくれているお方にただただ感謝する。


私の寿命が尽きるまで、
私を創造してくれたお方に、よく頑張ったねと言われる日が来るまで、私は謙虚に生きていきたい。

例え寿命が尽きたとしても、
この世で共に生きた子供たちや家族、大切な人達と、また会える日がくることを祈って、
ただ平穏にこの世を全うできたなら、
素晴らしい人生だったと思ってその日を迎えられるんじゃないかな。


そう思った2021年のラマダン前の心境でした。


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