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オンナトモダチ【改稿】

 女友達の改稿

――あの人の声を永遠に届けます。エタニテ。株式会社ビオ。
 宣伝文句が物語の佳境で容赦なく差し込まれた。株式会社ビオは北園八重子が新卒で就職した会社だった。終業後まで関わりたくないと、うんざりして動画配信アプリを消した。
 あの人はもう亡くなったんです! こんなのは止めてもらいたいわ!
 電話口の声を思い出し、八重子は唇を無意識に嚙みしめる。エタニテが始まってから何回も同じようなクレームを受けてきた。思わずマニュアル通りの回答が口をついた。
 弊社サービスはあなたの旦那様があなたの為に登録なさいました。お辛いとは思いますが、旦那様の気持ちに寄り添って、もう少しエタニテで話してみませんか。たくさん話すうちに本来の旦那様が戻ってきますよ。
 こんな詭弁がどれほど顧客を満足させるのだろうか? 八重子はため息を吐いた。
 入社した頃はWebサービスのシステム開発がメインの事業だったビオが、新規開拓としてフェネラル、つまり死を取り扱う事業を始めたのはほんの一年前だった。エタニテは故人の声や喋り方をAIに模倣させ、まるで故人と対話しているように通話ができるというサービスとして誕生した。
 サービス開始当初、八重子も胸が躍った。死者と話すことができるなんてロマンがあると思ったのだ。それがいまはどうだろう。本当に良いサービスなのか分からなかった。
 もう一度ため息を吐いて、八重子は冷蔵庫からケーキを取り出した。近所でも有名なケーキ屋のショートケーキをわざわざ買ったのだ。一日早いけれど、もう誕生日祝いをしてしまおう。
 少しうきうきした気分でリビングへ戻ると、がらんと寂しい空間が彼女を待っていた。三十六にもなって独りで誕生日を祝うなんて。田舎に住む母が女の賞味期限は二十五までなんて言っていたのを思い出し、苛立ちがこみ上げた。
 八重子は端末の通知音によって我に返った。
〈久しぶり。八重ちゃん〉
 メッセージをくれたのは大学の同級生だった。ゼミが一緒で、去年も誕生日メッセージをくれた子だ。八重子の口元が緩んだが、すぐに引き結ぶはめになった。
〈突然だけど、としちゃんって覚えてる?〉
〈佐藤俊乃のこと?〉
 八重子は眉をひそめる。できればその名前は思い出したくなかったからだ。
〈そうなの。としちゃん亡くなったんだって〉
 数回メッセージを見返して、八重子はベッドに座り込んだ。指から滑り落ちた箱から生クリームが飛び出した。八重子の動揺を知らない同級生からは、淡々としたメッセージを送られてくる。
〈え、どうして? あんな風邪も引かないような子が? 原因は?〉
〈わからない。でも事故じゃないみたい〉
 八重子はそれ以上端末を見なかった。
 佐藤俊乃。八重子の高校時代と大学時代の思い出を埋め尽くした女。人文学部日本文学科近代文学専攻、ゼミまで一緒だった。八重子の頭には俊乃との交わした言葉のすべて、怒鳴りあったことや、笑いあったことのすべてが何度も点滅して繰り返された。
 涙は出なかった。

 翌朝、八重子は出社時刻間際に目が覚めたので、人生で初めて仮病で仕事を休んだ。
 枕に顔を押し付ける。瞼の裏に俊乃の顔が浮かんだ。
 俊乃は髪の長い女だった。黒髪はいつもボサボサで、目つきも悪かったけれど、薄化粧に真っ赤な口紅を塗っているだけで様になるような女だった。
 いつも彼氏を引き連れて独り身の八重子を馬鹿にした。数週間して彼氏に振られると八重子に泣きついてきた。八重子の貴重な数十時間を奪った挙句に、「あーあ、やっぱあんたじゃダメ」と言い放つのが常だった。
「女じゃダメだわ。男の肌が布団のように恋しいぜ」
「林芙美子気取り? いい加減にしてよ」
 怒気の籠った八重子の文句も俊乃には効き目がなかった。少し勝気に眉を吊り上げて俊乃はさも嬉しそうに目を細めるのだ。その表情を見ると八重子の怒りは治まってしまう。病気だと八重子は思った。大嫌いだと思った。

 気が付くと、部屋の白い天井が夕闇に染まっていた。
 枕もとの時計は十八時をさしている。何かしようという気にもならないけれど、せめて食事くらいは、と八重子が思った時だった。
『なぁ、聞こえるか?』
 端末の通話ツールが強制的に起動した。八重子の身体が強張る。もしもしと答えた声は震えていた。
『よぅ、久しぶり』
「俊乃……」
『ご名答』
 少し掠れた低い声は俊乃のものに違いないように感じた。短くなっていく吐息を落ち着かせようと八重子は深呼吸をしてみる。
『あんたんとこのサービスすごいな。まるであたしじゃん』
「そう。やっぱりエタニテなのね」
『おう。死んだ人間の記憶から言動のパターンを読み取り、死んだ人間と会話しているような気にさせてくれる画期的なサービス』
 俊乃の意地の悪い声色に八重子は舌打ちした。
「実際に体験すると気持ちが悪いものね」
『おいおい。自社サービスだろうが。陰気だな相変わらず』
 目の前に俊乃がいたら八重子は彼女の頬を叩いていただろう。相手はAIと言い聞かせ、八重子は冷たく言い放つ。
「利用者だとは思わなかったわ」
『あー、実はさ、順三が勝手にやったんだよな』
「なんですって。まだ付き合ってたの?」
 八重子の瞳孔が開く。
 小森順三は彼女たちの大学の准教授で、俊乃を女として愛していた男だった。八重子にしてみれば、大学の先生が十歳近く年下の女の子に手を出すことが論外だったし、それを嬉々として受け入れる俊乃が理解出来なかった。
 その気持ちを正直に俊乃にぶつけたこともあったが、「もしかして小森先生の事好きだった? 取っちまって悪いな」と言い返された。心配を無下にされた挙げ句、無用な気遣いをされたのが腹立たしかったのをよく覚えている。
「もしかしてあなた達は結婚して……」
『ないわ。キモい』
 あざ笑う気配がした。そのあざ笑い方、馬鹿にしたような口振りが懐かしかった。
 佐藤俊乃っぽい雰囲気が再現されているように感じる。八重子は所詮AI、私の発言を反照して対話しているかのようにみせているだけよ、と思い込もうとした。
『むかつく男だったけど、エタニテとあんたのことを教えてくれたのは感謝してるよ』
 昨日のクレームが頭を掠めた。
 あの人はもう亡くなったんです! こんなのは止めてもらいたいわ!
「あなたが感謝? 笑わせないで。まるで偽物だわ」
 噛みしめるように偽物、と口にする。しかし、俊乃は何気ない口調で八重子に問いかけた
『ふーん、じゃあ本物のあたしってやつが八重子にはわかるってこと?』
「え?」
 八重子は面食らって咄嗟に返答できなかった。
『それこそ幻想だろ。幻想』
 絶句する八重子をお構いなしで俊乃は続ける。
『結局人間はさ、自分の想像範囲内から選び取ったその人らしさっていうイメージの集合体としか対話できないって。それはあたしが生きてたって同じことだろ。何年も会ってなかったんだし。いま喋ってるあたしと生きていた時の佐藤俊乃が全く別物だって言い切れる根拠にはなんないじゃん』
 全身が震え始めて、八重子は不安に駆られた。
「そんなことないわ」
『あるよ。あたしはあたしの見たい北園八重子をずっと見てきた。本物のあんたなんか知らないよ』
「嘘よ。だってあなたは……」
 頭の中に火花のように思い出がよみがえった。
 高校二年の時、授業の一環でグループ分けされた生徒たちがグループのメンバーの印象を発表するという機会があった。
 同級生のひとりが北園さんは食堂でひとりでも平気そうと言った。その後も休み時間も熱心に本を読んでいて寂しくなさそうだとか、無人島とかに行ってもひとりで逞しく生きていきそうだとか、随分と好き勝手言ってくれると青筋を立てながら八重子は聞いていた。けれど俊乃は腹を抱えて笑いながら、
「こう見えてこの子はあれよ、一人好きの淋しがり。だからって抱いてやろうなんて思わないほうがいいぜ。この子はあたしんだから」
 と宣言したのだった。俊乃は八重子の隠蔽する気持ちに気が付いている。気付いた上で、友達でいようとしている。あの時の喜び。これも幻想だったというのだろうか? 急に八重子を支えていたすべての支えを失ったような気になった。
『もしもーし? 急に黙んなよ』
 不快感でぶるぶる震える八重子を支えるかのように俊乃は甘い声色を奏でた。
『まぁ。なんの話かわからんけどさ、そう落ち込むなって。あたしはさ、あんたの仕事をいいと思ってんの。死をなかったことにする技術じゃん。すごいと思うぜ』
 これは俊乃じゃない。だって俊乃は八重子のやることなすことすべてに皮肉を言わずにはいられないはずなのだから。
「あなたは私を肯定したりしないわ」
 破裂するような笑い声が聞こえた。
『あたしのことそんな風に思ってたんだ。加齢だよ。加齢。あたしだって人生経験積んできたんだから丸くなることもある。大学卒業してからずっと会ってなかったし、むしろ変わらない方が異常じゃね?』
 いらいらして八重子は俊乃の声を遮った。
「ならいい歳をした女がその喋り方のままなのはどうなのよ。それこそ異常でしょう」
『やめろよ。詰てくんなよ。相変わらずキツい女だな。彼氏いねぇだろ』
「一言余計なのよ!」 
 会話を重ねるうちに、俊乃の言動が八重子の想定範囲内に戻ってくる。八重子は偽物だと嘯きながらも相手がただのAIだと思い込めなくなっていた。理性ではAIが八重子の反応から俊乃の言動を修正したのだとわかっていても、俊乃がこの世界のどこかに生きているのだと信じ始めていた。
 俊乃は八重子の気が鎮まるまで少し待ってから歌うように言った。
『むかしさ、登場人物のらしくない様に遭遇したとき、意外な一面と受け取るかキャラぶれと受け取るか、そんな話で一日潰したことあったよな』
「突然なによ」
 八重子は虚を突かれた。
『あんたはキャラぶれだって譲らなかった』
 八重子は俊乃の姿が目の前ではっきりと形を取ったように思えた。相変わらずの長いボサボサの髪。真っ赤な唇。切れ長の目元は少し垂れていて、年相応のようにも若作りのようにも見えた。
『あたしは違うって言った』
「そうね。あなたは予想外の一面だ、絶対に本文中に裏付けが見つかるって譲らなかった」
『いまでもそう思ってるぜ、あたしは。変わんないな、八重子も』
「やめてよ」
 俊乃との対話に八重子は耐え切れなくなってきた。
 このままでは俊乃が死んだ事実を認められなくなりそうだった。それは良くないことだ。
 いや本当だろうか? 人の死を無かったことにするのが悪いことだと誰が決めたのだろう。自社の技術が死の克服を後押ししてくれるのに?
「もう切るから」
 八重子は終話を押そうとした。あ、そうだと声が挟まる。
『あんた誕生日だよな。おめっと……』
 言い終わらないうちに八重子は通話を終了した。
 通話を続けるには有料プランにご登録ください、と無粋なアナウンスが聞こえ、八重子はクッションを壁に投げつけた。
 瞼が熱くなる。嗚咽が漏れだし、八重子は忘れていた思春期の一場面が脳裏で形を作ったのを感じた。
 思い出の中で、日が沈みかけていた。八重子は高校三年生だった。市内でも大きな芝と木々だらけの公園の人気のない茂みの向こうに少し広くなった場所八重子はいた。俊乃は息を乱してうずくまっている八重子の肩を叩く。
「帰んぞ」
「いいわ。放っておいて」
「親心配すんぞ」
 両親は八重子が東京の大学へ進学しようとするのを本当は歓迎していない。彼らの人生に県を出るという選択肢がないから。彼らは八重子を嫌ってはいない。けれど育てにくい子だと思っている。
 俊乃は隣に座り込んだ。彼女が空に目を向けたので、八重子も顔を上げた。空の橙と紺碧のグラデーションだった。
「あのさ、あんたかっこいいよ。自分をしっかり持ってて。世間にひとり反発してさ」
 嫌味かと思ったけれど、俊乃の声は柔らかかった。
 俊乃がにじり寄る。拳ひとつ分、空いている。それ以上にくっつくことはない。それはきっと一生そうなのだと八重子は思う。八重子が女で、俊乃も女である以上は。俊乃は口を開いた。
「あたし、あんたそういうとこ好きだぜ。そういうとこだけな」
 夕日に映える端正な横顔。少し勝気に眉を上げて俊乃はさも嬉しそうに目を細めた。笑みに灯る柔らかさ。それは普段の俊乃から想像できる範囲を超えていた。八重子は声もなく泣いていた。
 鼻を啜る音が滑稽に響いた。八重子はもう大人で、高校生ではなかった。
「馬鹿馬鹿しい」
 八重子が乱暴にタオルで目元を拭き取った。
「あなた、私の誕生日なんて知らないはずでしょ」
 AIの癖に生意気よ。八重子の口に笑みが浮かんだ。
 胸の靄が消えたのが悔しかった。八重子は、明日は会社に行けるだろうし、仮病など使って仕事を休むことも今後ないだろうと思った。

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