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山好きなら山で死ぬのが本望

そんなわけないだろ。
山で死んだら、次にその山に登る人に、なんなら山岳界関係全体に迷惑をかける。そしてなんと言っても死んでしまったらもう次の山に登れないじゃないか。これは本当によく言われるけど、私は山に死にに行ってるわけじゃない。生きるためだ。やらなきゃいけないことは死ぬほどあるのに、とりあえずそれから逃げるためにyoutubeを開いて、動画と動画の間のスキップ出来ない広告を見ている時、かなり今自分は死に近いんじゃないかと思う。そしてスタンダールのあの有名な墓碑銘、<生きた、書いた、愛した>を思い出す。今私が死んだら、<生きた、ツイートした、youtubeを見た>になるのかな。それめちゃくちゃ嫌だな。私はSNSをするために生きているんだろうかっていうとてつもない虚無感をおんぶしながらスマホを見ている。

でも山に登っているときはそんな自分はどこにもいない。ただ上を目指そうと臓器をフル躍動させるどうぶつのような私がいる。周りには、作為の塊である広告や、人間の思惑をじっとりと含んだ視線や、私たちの思考を先回りしてしたり顔で持ち伏せするAIなんかはいない。このシンプルさ、そしてその中で気がつくあまりにも多様な自分以外の生き物の存在への畏怖が心地いい。争わなくてもいいし比べられることもない。この瞬間に私は生を濃く、濃く感じる。文明に生かされているのではなく、確かに生きていると感じる。この瞬間までは忘れてしまっていたその感覚にほっとする。そして山の中でもうどうにも形容できない素晴らしい世界の一面を見た時、大きな疎外感を覚える。でもこれは決してネガティブな感情ではない。ここで自分がいなくなっても、このまま世界は変わらず美しいだろうなあと思う。これも自分にとっては一種の安心材料だ。自分の努力や下手な気遣いではどうにも変えられないこの世の絶対ルールが確かに存在すると感じられるのは気持ちがいいことだ。虚無感と無力感は私の中では大きく違う。

色々あって今私は大好きな山の麓に住んでいる。毎日毎日青空に映える美しい山嶺を見ながら、まだ生きるぞと思うのだ。


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