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居場所って誰かが誰かに与えるもの? テーマ学習「つながりと居場所」振り返り

こんにちは。日吉ヶ丘高校 進路部のやまがみです。

日吉ヶ丘高校進路部では学生ボランティアと協働して、高校生・学生・教員が共に考える学びの場=総合型選抜対策講座を企画しています。毎回、運営メンバーの中から一人担当を決めて、その人が中心となって自身の問題意識や違和感、モヤモヤからテーマ学習を作っています。今回は僕が担当したテーマ学習「つながりと居場所」について、企画から当日の様子、その後の感想まで振り返っていきます。

「居場所が必要である」のその先

今回の学習会を企画するにあたり、入試小論文ではお決まりのフレーズ「社会構造が変化して、官民の枠組みを超えた福祉やボランティアによる連帯が必要になった」という言葉について、再考する所からはじめました。
僕は「どんな人でもそこにいていい学びの場」みたいなものをいつか作りたいなあと漠然と考えています。
そう考えるようになったのは自分自身が大学生のときに大事なことを話せる場所がなくて疎外感を感じた経験、岩手県での震災ボランティアでの経験、教員として高校生にとっての安心して話せる場所になることで高校生の可能性が開くことを知った経験があるからです。
あの時そんな場所があったら良かったのにっていう場所を作りたい、つながりを喪失した人も迎え入れられる場所を作りたいという思いがある。
一方で「つながり」「居場所」という言葉に「白々しさ」を感じてしまう自分自身もいる。
いつも誰かとつながっていることを要求される雰囲気に疲れたり、差し伸べられる手に対して余計なお世話だなあと感じたりすることが正直あるし、
(それはもしかしたら今の僕が幸いなことに周りの人に恵まれているからからかもしれませんが...)
提供される「つながり」「居場所」というものに対して、大学生の頃の僕ならその輪に入れないなあって冷静になると思ってしまいます。
きっと当時の僕は居場所を作っている人の思惑が見え隠れして信じきれなくなったり、キラキラしたところに嘘くささを感じたりしてフェードアウトしてしまいます。
でも安心できる場所、サードプレイスに気がついたら助けられていたこともあるからこそ、作りたい、本当に届いて欲しい人に届けたいという気持ちがありました。
前回の人権学習でみんなで思いを伝え合う様子を見て、この場に集まる高校生、学生ボランティアや他の教員と、僕自身のこの問題意識について話しあいたい。
「社会構造が変化して、官民の枠組みを超えた福祉やボランティアによる連帯が必要になった」で終わらない、その先のテーマ学習を考えました。


支援を受ける人はどんな抵抗を感じるのだろうか?

世の中に「つながり」「居場所」の支援はたくさんある。それなのにどうしてそこにアクセスできない人がいるんだろう?支援を受ける心的な障壁の大きさはとても良くわかります。
震災ボランティアでも、コミュニティ支援の場に来る参加者の層の偏りが課題となりました。男性の中高年は本当に来てもらえません。そういった支援から離れていく人にも支援をどうやって届けるか、これを考えるために、「支援を受ける側の感じる抵抗について掘り下げるアクティビティ」に取り組みました。
高校生・学生・教員で言葉を交わし合う中で出てきた、とても印象的だったフレーズが「あ、大丈夫です」という言葉。これすごく良くわかる。ギリギリまで耐えてしまうプライド、支援を受ける立場にある惨めさを感じたくない、社会からの目、疎外感。自立支援や教育の場では本人の意思、選択を尊重すべきだと思うけど、命の危機や緊急を要する危険が予測されるとき、そういった支援を受ける人の心的な障壁をどうやって解消できるのか?どうやって「ここに居てもいいんだ」という意識を喚起するのか?


新しい居場所を考えるアクティビティ

次に「支援を受ける側の抵抗」を掘り下げた上で、どうやってそれを解消し、「居心地の良い居場所」に必要な「存在意義」を感じることができる場を共に作ることができるか、新しい居場所のプランニングをするアクティビティに取り組みました。
2つのグループはどちらも同じくカフェを提案。しかし心理的障壁を解消するための考え方に違いがある、おもしろいプランができました。

グループ1の主なアイディア
居場所をなくした人が経営するカフェ。
価格を落として客にも給仕を手伝ってもらう。
スポーツ大会のような誰でもフラットに楽しめるイベントをカフェを中心に企画する

こちらのグループは支援を受ける人自身が働いたり、いっしょに活動することで「存在意義」を高める工夫が見えました。

グループ2の主なアイディア
過去に似た経験をした人と会える場所
個室を設置して一人になるけど孤独じゃない空間づくり
カウンターではマスターが話しかけてくれる。ただし、30分に1回、1時間に1回と話しかけてくる頻度を来る側が選べる。

こちらのグループでは共感を得られたり心理的距離を保ちつつも繋がれたりする居心地の良さにフォーカスしていました。

活動を通して

今回の活動に参加した高校生・学生・教員の振り返りの言葉を一部紹介します。

・グループワークを通して居場所についての捉え方の違いを感じ、こんな見方もあるんだと思った。
・孤独になってしまった人は自分って必要なのかな?って思っても助けを求められなかったり、大丈夫?って言われても遠慮してなかなか孤独から抜け出せなくなると思いました。
・解決策をいかに具体的に描けるかが大事、楽しく伝えられた。
・高校生が発表した流れがすでに小論文の構造になっていた。
・2つのグループでゴールは同じだけど、たどり着くルートが違うおもしろさがあった。
・先生もいるけれど、絶対的じゃない居心地の良い空間だった。
・この場所で疎外感を感じている人はいなかった、安心して高校生も学生も教員も話していた。

改善点としてはこのような言葉が出ました。

・話すことはできても、一人で書くのが難しい、ここが高校生には課題。
・どういうパスを出したら、高校生の本当の言葉を引き出せるか?
・思考のルートに正解はない。だからこそ、どういうパスを出すことが、高校生の次の一言に繋がるかがわからないのだと思う。これは高校生と話しながらたくさん経験を積んで考えよう。

求められたり、応えたり、ただいるだけで良かったり

今回の学びを通して、僕自身がたどり着いた答えは
支援をする側=居場所を作る人
支援を受ける側=居場所を与えられる人
ではないということです。
居場所というのはその人自身にとって居心地のいい場所。誰かに求められたり、それに応えたり、くだらないことで笑えたり。
そうやって自分もその空間を作ることに参画しつつ「自分はここにいてもいい」という「存在意義」を感じられる場所は見出されるものだと考えました。

現実に開かれた学びの場に

終了後、余韻に浸って教室に残って議論の続きをする高校生が自然にいたことが何より嬉しかったですし、めちゃくちゃ達成感がありました。
一方で個人的には「本当に居場所を失った人」の視点をもう少しリアリティを持って考えてもらう学びを作りたかったなあというのが反省点。
けどその視点がわからないのはある意味で当然なんだと思います。想像力でカバーできない視点はもちろんあるというのが僕の考え方。
それに僕自身、こういったテーマ学習を作るにあたっていつも当事者性の薄い問題についてどうやって話すべきか悩むところがありますし、話していてスッキリしないところがあります。
今回のように「自身の問題意識からスタートする」「自身の経験から語る」ことを意識しても、このモヤモヤは残ります。
「教員では経験できない立場にいる人の知見や生き方、リアリティを高校生や我々に示しつつ共に話し合ってくれる人」をなんとかして巻き込んで、もっと現実に開かれた学びの場を作りたいなあというのが今後の課題です。

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