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思索

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つれづれ。
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#自己分析

ストレングス・ファインダーをやってみたらダメだと思ってたものが才能だった

ずっと「人から見た自分」と「自分で感じている自分」に大きな差があると感じていました。そして「向いていること」と「やりたいこと」そこに大きな乖離があるように感じていました。 HSP/HSSを知って、占星術を知って、「ほんとうの、たったひとりの自分なんていない、ぜんぶ自分なんだ」とわかったけど、「じゃあこの自分は、どうやったら幸せに生きられるか」というのはまだわからない。 落ち込みがちなのは相変わらずですが、コンプレックスを強みに変える、自分の「荷物」を「道具」に変えていくた

自分と向き合い始めたのは「逃げ」からだった

わたしは「自分と向き合う」ということをよくnoteでも書きますし、今でも続けています。 そのおかげで前向きになることも増えたし、自分の人生の課題を意識することも増えました。やってよかったと思っています。 けれど、最初から前向きな気持ちではじめたわけじゃありませんでした。 むしろ向き合うどころか、目を背けてきたり、逃げた結果が「自分と向き合う」という行為に繋がっているだけ。 ほんとうにただ「逃げ」でした。 ここから書くことは過去のどん底期に考えていたことなので、読んで

ぜんぶ、自分なんだ

私は時折、脳みそだけ、肉体を超えた存在になりたいと思う時がある。攻殻機動隊の素子さんとか憧れる。ああいう世界観は、現実にあるといやだな、とは思うけど。 自分の肉体がきらい。きらいだけど、すき、すきだけど、きらい。 たとえば体型。標準よりはるかに重い体重。これでも1番太っていた時よりは痩せたけど、あらゆる部分がだらしない。それに顔。見る人が見れば美人らしいけど、自分の顔面はそこまで好きではない。メイクするのは、自分の顔面が少しでもマシに見えるようにするため。 そんなことを

コンプレックスだらけのアラサー女が自分を受け入れるためにやってきたことまとめ

私はコンプレックスだらけで自己肯定感がすこぶる低く「何の役にも立たない、こんな自分は生きていないほうがいい」そんなふうに考えていた時期がありました。 全てを乗り越えられたわけではなく、今でもたまにそう考える時はあります。 それでもなんとか、それなりにじわじわと、昔よりは自分に対しての嫌悪感や罪悪感は軽くなり、「自分って捨てたもんじゃないな」と思えるタイミングが増えてきました。 そんな自分が、これまで数年間、自己肯定感を高めるためにやってきたこと、その中でもやってよかった

言語化できていても、気持ちの整理がついてるとは限らない

辛い経験を言語化するというのは、しんどい。とても労力のいることだ。 そういう理由もあるから、カウンセラーやセラピストはよく「話したくなかったら無理に話さなくていいですよ」と言うのだろう。そして、やはり「話すのが苦しいから」と、話さない選択をする人もいる。 だからこそ「辛い経験を言語化できるようになる」というのはある程度「乗り越えた」指標とされることもあるが、そうではないこともある。 それはたとえば、話し手が「辛い経験を言葉にすること」の負荷に鈍感……もとい、気付いていな

嫌いなものを嫌いって言うのにも勇気がいる

私は常々「嫌いや不快は自分の中にある。不快に思うのは自分に焦点が合ってないから」と思っていて、何か嫌なことがあっても抑え込むというクセがある。 けれど最近、焦点が合ってないからといって、嫌いな気持ちそのものは否定しなくてもいいんだと思えるようになった。 そんな折、まさに思っていた事とどんぴしゃなタイトルに惹かれて、サイトウ ツグミさんのこのエッセイを読んだ。 実を言うと、私はツグミさんには勝手に親近感を感じていて、本題以外にも、興味が短期間で移り変わるところとかも含めて