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1月22日 群馬県の噴火と地震の災害史

最後の授業の今日は、群馬県で起こった噴火と地震による過去の災害を説明します。まずは浅間山から。浅間山は、前橋市の西50キロにあります。

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浅間山は、黒斑山、前掛山、そして釜山からなる三重式の火山です。一番内側にある直径500メートルの釜山火口は江戸時代1783年噴火でできました。その外側にある直径1300メートルの前掛山火口は平安時代1108年噴火でできました。1108年噴火のほうが有名な1783年噴火より大きかったのです。一番外側にある黒斑山の大きな馬蹄形の窪みは、噴火口ではありません。さて、どのようにできたのでしょうか?

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その話をする前に、ヘリコプターによる空撮写真をもう一枚ごらんにいれましょう。浅間山の北側、すなわち群馬県側には1783年噴火で流れ出した鬼押出し溶岩と吾妻火砕流が広がっています。鬼押出し溶岩は観光施設として、吾妻火砕流は別荘地としていまは利用されています。2004年9月噴火の翌年、2005年11月の秋の盛りに撮影しました。カラマツの黄葉がきれいです。山頂の釜山火口から白い煙を吐き出しています。

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では、馬蹄形の窪みの話です。

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前橋市内には、岩神飛石があります。群大医学部のそばにあるコープ生協の隣です。大きな赤い岩ですので、これを赤岩と呼ぶことにします。

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高崎市内を流れる烏川の中にある聖石(ひじりいし)も赤岩です。ここにも鳥居があって祀られています。このような巨石は、しかも血のような赤色は、人々に畏敬の念を与えて信仰の対象になるようです。

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伊勢崎市内を流れる桃ノ木川にも赤岩があって、龍神宮としてやはり祀られています。

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中之条町を流れる吾妻川にも、稲荷石(とうけえし)と呼ばれる赤岩があります。

これらの赤岩は、元は黒斑山の馬蹄形の窪みを占めていました。大きな火山の心棒をつくっていたアグルチネートと呼ばれる特徴的な岩石です。マグマのしぶきが火口の周囲に積み上がってできた岩です。黒斑山が東に向かって崩れて発生した土石なだれに運ばれて吾妻川に入り、さらには利根川を下って、各々の地点に置き去りにされました。

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赤岩は、浅間山の南側、長野県の千曲川沿いにもたくさん見られます。これは、佐久の赤岩弁財天です。ここの地名は赤岩です。

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上田城にも赤岩があります。西櫓(にしやぐら)はこの土石なだれの上につくられています。新幹線からも見えます。グーグルストリートビューでも確認できます。

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地図で示すとこうなります。土石なだれは東に向かって崩れたあと、鼻曲山にぶつかって南北に流れ分けました。南よりも北に向かった土石が多かったようです。高崎の聖石は榛名山の南を流れてくる烏川の河床にいまあります。利根川が関東平野に出た地点で土石なだれがどっとあふれて広い扇状地を形成したことがわかります。この流れと堆積物を塚原土石なだれと呼びます。2万4300年前に起こったことが、地層の重なりを調べてわかっています。

大量の土石が日本有数の河川である利根川と千曲川に流れ込んで下流に向かいました。分布面積は780平方キロです。平均厚さを10メートルと見積もると、流れた土石の量は7.8立方キロになります。最も遠い到達点は直線距離で72キロ、道のりで100キロ離れています。

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塚原土石なだれがつくった地形をドローンで空から観察してみましょう。吾妻川が利根川に合流する地点にある三角形をした吹屋原は、この土石なだれでできています。堆積物でかさ上げされた土地を吾妻川と利根川が二方向から削ったのです。うしろの山は小野子山と子持山です。

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赤城山の上空から西を見ました。吹屋面を紫色で着色しました。手前を蛇行して流れるのが利根川です。塚原土石なだれは吾妻川合流点から利根川を少し逆流しました。

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群馬ロイヤルホテルの駐車場の崖です。土石なだれが残した堆積物を観察するのに便利な場所です。

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ドローンで空中から見ると、こうなっています。この前橋台地は吹屋面につながります。左の高い建物が群馬県庁です。

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群馬県庁と前橋駅は、前橋台地の上にあります。前橋駅からけやき並木を北に歩くと、歩道橋のある五差路にぶつかります。五差路をさらに北に進むと、坂下というバス停があります。高さ3メートルほどの坂を下ったところに、前橋の繁華街が展開しています。坂の際(きわ)には馬場川が流れています。

馬場川から北東に4キロほどの幅で低地が広がっています。これは広瀬川低地帯と呼ばれ、伊勢崎まで続きます。ここが、元の、自然の、利根川流路です。いま、群馬県庁のすぐ西を前橋台地の中を切り裂いて狭い流路で利根川が流れているのは、16世紀の人為によるものです。榛名山の必従河川のひとつに利根川を人が閉じ込めたのです。

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群馬大学荒牧キャンパスの上空から見た広瀬川低地帯です。水色に着色しました。赤城山が向こう見えます。群馬大学は、地学的に言って、利根川の中に建設された国立大学です。

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群馬県庁の下流、前橋台地の中ほどに、塚原土石なだれが残した堆積物を観察するのにとくに適した場所があります。南側、高崎市側からアプローチします。中島町の住宅団地を通り過ぎて、堤防に沿ってつくられたサイクリングロードを乗り越えて行きます。

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泥の中には石だけでなく、樹幹が埋まっています。土石なだれは、それまで長いあいだ平和に育っていた緑の森を広く破壊して流れてきました。取り込んだ樹幹は、火砕流がそうするように炭化してはいません。塚原土石なだれはマグマの熱で高温だったのではなく、常温の流れだったことがわかります。すでに地表にあった山体が一気に崩れてきたのです。

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直径4メートルに達する大きな未固結堆積物(おそらく非溶結の火砕流堆積物)のブロックも含まれています。長い道のりを流れて来ても壊れていません。

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降下軽石堆積物のブロックもみつかります。粒径からみて、北軽井沢ふきんの山麓に堆積していたと思われます。ちょっと力を入れれば砕けてしまいそうな軽石の集合体が50キロも流れて来てそのままの状態で残っているのは、土石なだれの挙動を理解するうえで重要です。ただし、ブロックの表面が摩耗して丸くなってはいますが。

災害リスクの話をします。

リスクは、災害と発生頻度の積で求めます。しかし低頻度事象の場合は、発生頻度を求めるのが容易ではありません。ここでは、年代の逆数を発生頻度とみることにします。

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2万4300年前の塚原土石なだれが広がった地域には、いま60万人が住んでいます。これを2万4000年で割ると、そのリスクは24.7人/年と求まります。1年あたり24.7人が死ぬ程度のリスクです。これは、同じ浅間山の江戸時代1783年噴火のリスク21.3人/年を上回ります。

1783年噴火(天明噴火)のリスクはしばしば取りざたされますが、2万4300年前に起こった黒斑山崩壊のリスクが取りざたされることはありません。一般の人は、このリスクの存在をまだ知らないようです。いまの浅間山である前掛山は、当時の黒斑山と同じくらい大きく高く育ったようにみえるのですが。

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同じリスクでも低頻度災害に備えるのは、意識しないとむずかしいようです。「毎年100人死亡」と「100万年に1億人死亡」は同じリスクです。前者のリスクには軽減策が熱心にとられる一方で、後者のリスクは無視されることが多いようです。さて「1万年に100万人死亡」のリスクはどうでしょうか。やはり無視されることが多いようにみえます。人生100年とすると、1万年に1回起こる事象に遭遇する確率は1%なんですけどね。

群馬県で起こった他の火山災害も見ていきましょう。

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1783年8月5日に吾妻川を下った鎌原熱泥流が残した堆積物です。利根川左岸を走る国体道路が国道17号と合流する地点です。黄色く着色した利根川沿いの狭い段丘がそれです。

鎌原熱泥流の規模は、塚原土石なだれの100分の1でした。それが、100倍近い過去に発生しました。一般に、自然事象の規模と頻度には反比例の関係があります。10分の1の事象は10倍頻繁に起こるものです。塚原土石なだれと鎌原土石なだれは、この関係によく当てはまります。

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鎌原熱泥流は黒岩を置き去りにしました。黒岩は鬼押出し溶岩の破片です。鎌原熱泥流は山頂火口からではなく、鬼押出し溶岩の先端から発生したのです。中村の浅間石は、関越道の渋川インターチェンジを建設するときに渋川市の武道館駐車場角に移設されました。

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金島の浅間石は、上越新幹線の橋脚の下にあります。写真右上のコンクリートが上越新幹線です。

榛名山は6世紀に噴火して、軽石を風下に厚く堆積させました。

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伊香保温泉の裏手にある二ッ岳は、その噴火の最後に上昇してた溶岩ドームです。そのときの風は南西から吹いていました。グリーン牧場やスカイランドパークは、軽石が10メートル近くも堆積した土地の上に造られています。

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この写真は、金島駅のそばの道路拡幅工事のときに撮影したものです。まだ1500年しかたっていないから、表土が薄いことに注目してください。

群馬県の事故死者の記録を見てみましょう。

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地震で死亡したのは、1931年西埼玉地震による5人だけです。大正関東地震で群馬県での死者はゼロでした。

いっぽう噴火で死亡した人は大勢います。浅間山の1783年噴火では1490人が死亡しました。浅間山ではそのあとも、20世紀のブルカノ式爆発10回で約30人が死亡しました。ただしすべて登山者です。

1932年には、草津白根山で2人が死亡しました。湯釜の中にあった硫黄鉱山で働いていた鉱夫でした。

1108年の浅間山噴火でも死者が出たと思いますが、書かれた記録は伝わっていません。榛名山6世紀噴火も、書かれた記録は伝わっていませんが、火砕流に巻き込まれて死亡した人の骨が何体か、渋川市内で行われた最近の考古発掘でみつかっています。

このように、群馬県で火山の噴火で死亡した人の数は少なくありません。多いです。

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さて水害はどうでしょうか。リスクは単独で評価するのではなく、いくつも取り上げて比較することが大切です。1947年カスリン台風で699人が死亡しました。大胡町で被害が顕著でした。水害による死者はそのあとも続いています。群馬県では、地震よりも噴火、噴火よりも水害の死者が多いのです。

群馬県では、交通事故で毎年100人が死亡しています。水害をはじめとする自然災害よりも交通事故で人がより多く死んでいます。

火災による死者は毎年20人です。これは、浅間山のリスクとほぼ同じ程度です。

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過去400年の死者数で地震リスクと火山リスクを都道府県別に比べてみました。多くの都道府県は地震リスクが火山リスクを上回りますが、火山リスクが上回る道県が6つあります。北海道、福島県、群馬県、長崎県、宮崎県、そして鹿児島県です。

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火山リスクと交通事故リスクを各都道府県で比べてみました。火山リスクは過去400年だけではなく、10万年までさかのぼって塚原土石なだれと同じ方法でリスクを算出しました。その結果、火山リスクが交通事故リスクを上回るのは、青森県、秋田県、群馬県、長崎県、そして鹿児島県でした。

群馬県は、日本の中で火山リスクにもっとも脆弱な都道府県のひとつです。そこで生活する私たちはどうすればよいでしょうか。

地震保険が火災保険の特約として販売されています。

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地震保険の保険料率は国が定めていますから、どの保険会社から買っても同じです。保険料率は都道府県によって違います。1等地から4等地までありますが、群馬県は1等地です。

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東京都は4等地です。1等地と4等地は、保険料が3.13倍違います。群馬県の地震保険は東京都より3.13倍安いのです。

地震保険は過去400年の地震災害記録によって算定されています。群馬県が1等地なのは、5人しか死んでないから妥当な判定です。

ここでよいことをお知らせします。地震保険は火山噴火による被害も補償します。保険業界は、どうやら地震と火山の区別ができないようです(笑)。過去400年の地震だけで算定された保険料で火山噴火もカバーするというのです。これはお得です。群馬県でも、とくに吾妻郡内の火山災害に脆弱な地域の人は地震保険にぜひ加入してください。

再来週、試験をします。

Moodle課題で試験問題をワードファイルで呈示します。ダウンロードして、解答を記入して、提出してください。11時50分締め切り。時刻厳守。noteを含むインターネットを閲覧してかまいませんが、友人の答案を丸写しするのはいけません。

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