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十和田湖の御倉山は平安時代915年に上昇した溶岩ドーム

十和田湖の火山防災計画を立案するときは、もっとも新しい平安時代915年噴火Aがどこでどう起こったかを正しく把握することが重要である。この噴火のあと、これを上回る噴火は日本列島でまだ起きていない。それほど大きな噴火だったからだ。

御倉山が8000年前の噴火Dでできたとする新説を十和田火山防災協議会は採用しているが、その新説は明白な誤りである。従来の大池昭二説通り、御倉山は915年噴火Aの最終段階で上昇してきて火道に栓をした溶岩ドームである。東方向にいくぶん流れ下っているから、厚い溶岩流だと言ってもよい。

十和田湖に半島として突き出した御倉山。グーグルマップ衛星写真。

6300年前に噴出した中掫軽石Cが御倉山溶岩ドームの上には乗ってないことが決定的な根拠である。もし乗っていれば等層厚線から見て厚さ4メートルを超えるはずだが、どこにも乗っていない。1983年秋に地元の方のキノコ採りに同行して御倉山の上をくまなく観察する機会を得たが、中掫軽石の堆積層をいっさい見なかった。

いっぽう、御倉半島の付け根部分(宇樽部)には分厚く乗ってる。したがって御倉山溶岩ドームは6300年前より新しい。915年A噴火口は御倉山溶岩ドームの真下にある。中湖ではない。最新噴火が起こった火口位置を間違えてはいけない。

赤い五色岩の上に白い中掫軽石(6300年前)が厚く乗る。左上に見える御倉山の上には乗っていない。6300年前よりあとにできたからだ。
中湖を取り巻く地域の地質図。Hayakawa (1985) のカラー原図。「3」が中掫軽石。
中掫軽石の等層厚線図(早川、1983)。赤く塗りつぶした御倉山では400センチが期待される。

御倉山が十和田湖の最新噴火でできたことを初めて指摘したのは大池昭二さんが1976年に書いた論文だ。私は、十和田湖を修士論文のテーマにすると決めた1980年秋に大池さんを八戸北高校に訪ねた。十和田湖から噴出した軽石火山灰のことをたくさん教えていただいた。博士論文を執筆中だと聞いたが、残念なことにその後まもなく亡くなった。

なお、十和田湖の最新噴火が平安時代915年だと最初に指摘したのは町田ほか(1981)である。扶桑略記に、出羽の国に灰が二寸積もって桑が枯れたと書いてある。

平安時代915年7月の十和田湖噴火地図。分布軸が南に伸びる大湯軽石(赤細線は5センチ)と毛馬内火砕流。最後に御倉山溶岩ドームがゆっくり上昇した。火砕流噴火直後に米代川をシラス洪水が下った。埋没遺跡が多数見つかっている。

京都から見た昇る朝日に輝きがなくてまるで月のようだったと扶桑略記が書いた8月18日の前日に十和田湖で噴火が起こったと、私は1998年に解釈した。しかし、それは間違いだった。灰が二寸積もったと出羽国から知らせが京都に届いたのは8月26日だった。わずか8日では出羽国から京都まで行けない。浅間山1108年噴火の知らせが上野国から京都に届くまで46日かかったことを参考にすると、十和田湖の噴火は915年7月に起こったと考えられる。

915年噴火Aは御倉山の中央から起こった。2000年前の噴火Bの場所はよくわからないが、湖底から湖面まで溶岩ドームとして盛り上がる御門石(ごもんいし)だった可能性がある。

中湖火口は6300年前の噴火Cでいまの深さになった。噴火末期に外湖と連結した。中湖に一気に流れ込んだ外湖の水が湖底を浸食してV字谷を形成した。大量の湖水が中湖にあったマグマとダイナミックに接触して水蒸気マグマ噴火が起こった。中掫軽石の上に重なる宇樽部火山灰がそのときの堆積物である。火山豆石を含む。9500年前の南部噴火Eも中湖から起こった。瞰湖台に露出する厚さ40メートルの堆積物は下部が溶結している。

御門石。溶岩ドームの頭が水面にかろうじて顔を出している。正面遠くは御鼻部山。

火山噴火の歴史解明をおろそかにしたまま立案した火山防災計画は、役に立たないどころか、いざというとき命取りにつながる誤判断を招く。

直近の大噴火災害の事実認識を大きく失敗したまま立案されている火山防災計画は、他に浅間山(1783年噴火)と富士山(1707年噴火2900年前崩壊)が指摘できる。浅間山の鎌原土石なだれは、鬼押出し溶岩の先端が柳井沼に達して水蒸気爆発したことによって発生した。富士山の宝永山赤岩は300年前にできたのではない。従来説通り10万年前につくられた古い山体だ。2900年前の山体崩壊は山頂火口縁の東側5分の1を食った。御殿場に向いた山腹にできた馬蹄形凹地はその直後600年間に流れ出した溶岩でほぼ完全に修復された。


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