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6月5日 過去を調べる

火山は噴火するから火山なのですが、いつも噴火しているわけではありません。ほとんどの時間を寝て過ごし、ときどき目を覚まして噴火します。大きな噴火はめったにしません。ですから、せいぜい100年しか生きない人間が火山を研究するときは、日本中いや世界中で起こる噴火を対象にしてもまだ足りないので、過去に起こった噴火を調べることになります。

文字史料は批判的に読む

昔の人が書き残した文字記録の中には火山が噴火したことを書いているものがあります。

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ただし、書いてあるからといって、それが事実かどうかはわかりません。ひとは、自分の主観で文章を書きます。自分の都合よいように書いたり、ときにはまったくのでっちあげを書くこともあります。いまニュースで耳にすることがらのなかにもそういうことが多い、いやむしろそういうことばかりだと、みなさんにも納得してもらえるだろうと思います。

文字記録に書かれた内容は、鵜呑みにすることなく疑ってかからないとなりません。その信ぴょう性を確かめる方法が複数あります。

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六国史は、奈良時代から平安時代前期に成立した日本国の正史です。下記の6書からなります。天皇による統治の正当性を示すために書かれました。日本最古の書き残された噴火は、『日本書紀』のなかにみられる天武十三年(684年)伊豆島の噴火です。正史に書かれているからといってただちにそれが事実であるとは言えませんが、国の統治の歴史と並行して書かれた地震や噴火の記述には、一定の信ぴょう性があります。

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天と人には密接な相関があるとする儒教の天人相関説が、古代の日本ではよく信じられました。地震や噴火のような災異は為政者に徳がないから発生するのだと考えられました。また、災害で苦しんでいる人々を救済する徳政もしばしば行われました。こういった考え方を反映して、六国史のなかには地震や噴火の記述がたくさん含まれています。

神代部分に関して、奈良時代に成立した『日本書紀』は同時代史料ではありません。のちの時代ではなくその時代に書かれた同時代史料であるかどうかは、文字記録から噴火の情報を拾うときにまず注意しなければならないことです。

江戸時代天明三年の浅間山噴火は甚大な被害を及ぼしたため、たくさんの文字記録が書き残されました。いくつかの書物は冒頭で、浅間山の過去の噴火に言及しています。『古史伝』は、似たような前回の噴火は弘安四年(1281年)にあったと書いています。この記述に依拠して、浅間山は1281年に1783年をしのぐ大きな噴火をしたと長いあいだ信じられていました。しかしいまは、それは事実ではなくフェイクだとされています。18世紀の人が書いた13世紀の噴火は500年も前のことです。その本の筆者が実体験したものではありません。伝承もしくは捏造です。事実だと認められません。

文字記録をこのように批判的に読むやり方を、歴史学では史料批判と呼んでいます。高校まで勉強してきた歴史では、史料記述を疑うなんて思いもよらないことだったでしょうが、今日それを終わりにしてください。史料に書いてあることそのままを事実であると認めることなく、筆者の立場や考え方そして利害関係に思いを巡らしつつ読んでください。

人が書いた文章を読むときは、それが事実なのか意見なのかを意識して区別するようにしましょう。意見に正しいも間違いもありません。どんな意見を言うのも自由です。尊重されるべきです。しかし、事実はひとつしかありません。事実でないことをあたかも事実のように語る人とつきあうのは、やめましょう。詐欺師にだまされないようにしましょう。

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京都の公家日記に記録された平安時代の浅間山噴火

平安時代に起こった浅間山噴火は、藤原宗忠(むねただ)の日記『中右記』(ちゅうゆうき)に詳しく書き残されています。日記ですから同時代史料に間違いありません。天仁元年八月二十日に京都で鳴動が聞こえました。二十五日に東の空がはなはだしく赤くなりました。九月三日にも赤くなりました。五日になって上野国から言上があり、麻間峯(あさまみね)が七月二十一日に焼けて煙が天に届いて砂礫が降り注いで田畑がだめになったという報告を受けたと書いてあります。

上野国からの言上はその具体的描写から、浅間山が噴火したことを書いたに違いありません。京に報告を上げた動機は年貢を減免してもらいたかったからでしょう。噴火が起こったのは天仁元年七月二十一日(1108年8月29日)だったことがわかります。

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さて、九月五日言上の前に書いてある八月下旬から九月上旬にかけての鳴動と天赤は何でしょう?

同様の記述が、藤原忠実(ただざね)の日記『殿暦』(でんりゃく)にもみつかります(こちらには嘉承三年とありますが、八月三日に鳥羽天皇が即位して天仁元年になりましたから、同じ年です)。嘉承三年八月十八日に東北から太鼓のような大きな音が聞こえた。白河院がお使いをよこしてこれは何事かとお尋ねになった。二十日にもその音は聞こえた。宗忠より2日早く異常に気付いています。白河上皇までもがいぶかしく思ったそうです。

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このように独立した日記に同じことが書かれているので、この異常は本当にあったと判断されます。京都で広く観察されたのでしょう。七月二十一日(1108年8月29日)のあと、4週間を隔てて八月十八日(9月26日)に再び噴火したのだと考えられます。文字記録を読むと、噴火が起こった年だけでなく、月日まで正確に知ることができます。他の方法では得られない貴重な情報を得ることができます。

この解釈は、浅間山麓に残された噴火堆積物の積み重なりとよく合致します。峰の茶屋の地面を掘り下げると、1783年軽石の下に、クロボクを挟んで、スコリアが現れます。これが、宗忠と忠実が書き残した1108年噴火による堆積物です。その真ん中にある赤い火山灰の上面は浸食されています。4週間の時間間隙がそこにあったのなら、たいへんもっともらしく思えます。噴火堆積物は物証になります。

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放射性元素による年代測定

月日まではむずかしいですが、年以上の単位でなら、理化学的な計測で過去を測定できます。放射性元素を利用した年代測定が実用化されています。

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測定の原理はおおむねこうです。カリウム-アルゴン法で説明しましょう。カリウム40は崩壊してアルゴンになります。アルゴンは希ガスですから、地下のマグマだまりにいるときはなかなか抜け出せません。その場に留まります。しかし、噴火すると大気中に逃げてしまいます。冷え固まった溶岩の中には残りません。アルゴンをまったく含まない溶岩ができ上ります。時計の針がリセットされました。時間とともに壊変してできたアルゴンが溶岩内に蓄積していきます。いま溶岩試料を採取して、そのなかのカリウムとアルゴンの量比を測れば、溶岩が冷え固まってから経過した時間がわかります。

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次に炭素14法を説明します。炭素14法の原理はちょっと複雑ですのでよく聞いてください。炭素の質量数はふつう12ですが、同位体として13と14が、ごく少数ですが、あります。中性子がひとつあるいは二つ多いのです。炭素13は安定同位体です。放射壊変しません。

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いっぽう炭素14は放射壊変します。高空で窒素14に宇宙線が当たって生成され、半減期5730年で窒素14に戻ります。つまり、大気中の炭素14濃度はそのときまでの宇宙線の強さで決まっています。生成する数と壊変する数が平衡に達しています。植物が炭酸同化作用で炭素を自分の体内に固定すると地球大気から切り離されます。すでに炭素14は壊変して窒素14にもどりますが、新しく生成されることがありません。炭素14は時間とともに減少していきます。ですから、試料の炭素12と炭素14の比率を測ることで、地球大気から切り離されてから経過した時間がわかります。

100歳の樹木年輪を測ったとしましょう。中心は最外年輪より100年古く出ます。年輪は、できた年の炭素でできています。したがって、火砕流の堆積物の中の炭化木を測定したときにわかるのは、火砕流が発生した瞬間ではなく、炭になった植物が生きて炭酸同化していた瞬間です。でも、その時間差は十分に短いから、測定値はふつう火砕流の年代として利用されます。

宇宙線の強度がもしずっと一定だったらこの方法でうまく年代を測ることができますが、じっさいには一定ではありません。炭素14法で測ると、2000年前まではやや新しく出ます。2000年前から200年前までは(日本の歴史時代のほとんどは)やや古く出ます。狂いは1割程度です。1000年前は1100年前くらいと出ます。この狂いを修正するために、屋久杉のような何千年も生きた古木の炭素14を精密に測った換算グラフがつくられて提供されています。また、炭素14法の狂いから逆に、宇宙線強度の経年変化が研究されています。

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半減期を10回繰り返すと、炭素14は1024分の1になって質量分析器ではもはや計測できなくなります。したがって、炭素14法の測定限界は6万年前あたりにあります。それより古い過去は炭素14法では測れません。別の方法を使います。

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杉の丸太を輪切りにしました。赤身(あかみ)と白太(しらた)からなります。赤身は木を支えている部分です。まあ、すでに死んでると言ってよいです。白太は根から吸い上げた水分と養分を枝葉に行き渡らす生きてる部分です。

上の写真中央の丸太は、赤身がおよそ30年輪、白太がおよそ20年輪あります。この杉は植えられてから50年後に切り倒されました。中心は一番外側の年輪に比べて50年古く形成されたから、つまり50年早く地球大気と切り離されたから、炭素14法で測るとその違いがその分きちんと反映されます。

榛名山の水沢山のふもとの寺院建設現場から、複数の樹幹が出ました。古墳時代に起こった榛名山の噴火で火山灰の中に埋没した樹幹でした。その年輪を5年ずつ切り取った連続試料を炭素14法で測りました。

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連続試料の測定結果を換算グラフに乗せて左右にスライドしてみると、上に示した位置がもっともよく重なります。最外試料は495年です。試料は5年輪ずつ取りましたから、一番外側の年輪ができた年は497年だったことがわかります。測定結果ですから、もちろん誤差があります。95%の確率で497±10年のなかにはいります。

同じ手法を、新潟焼山で平安時代に起こった火砕流噴火に適用しました。結果は1235年でした。平安時代ではなく鎌倉時代初期だったことがわかりました。

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堆積物で過去を探る

上で紹介した峰の茶屋の地層断面に見られるように、火山が噴火すると軽石や火山灰が地表に降り積もります。噴火堆積物(テフラ)ができ上ります。噴火堆積物の表面は風や雨によってすぐ浸食されて移動しますが、すべてが浸食されて失われる前に、一部の地表面が植生に覆われて安定します。そこに、風で土ぼこりが運ばれてきて、雨に打たれて草の根元に落ちて、毎年少しずつ堆積します。こうして黒土や赤土ができます。風で運ばれてできた地層だからレス(loess)と呼ぶのが妥当です。非噴火堆積物であるレスの間に挟まれた噴火堆積物一枚が一回の噴火に対応します。過去の噴火を調べるとき、もっとも多くの情報を得ることができる材料は地層です。

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十和田湖から1万5000年前に噴出した八戸火砕流がつくる台地の上にレスが堆積していて、そのあいだに何枚もの噴火堆積物が挟まれています。一番上のAは平安時代915年の噴火堆積物です。

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伊豆大島では、1500年間に堆積したレスの間に噴火堆積物(降下テフラ)が24枚挟まれています。噴火年代と噴出量で階段ダイアグラムがつくられています。

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浅間山の1108年堆積物の下をさらに掘ると、3世紀末の噴火堆積物がみつかります。それより下には厚い軽石堆積物がしばらくありません。

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テフラは時間や日の単位で一気に広い範囲を覆うため、地層の中に等時間面を与える鍵層として有効です。テフラの重なりを各地で調べて編年する研究をテフロクロノロジーといいます。上の写真は赤城山の山麓で深く掘られた大きな穴の断面です。偏西風に乗ってテフラは西から運ばれてきます。榛名山から伊香保軽石と八崎軽石が、浅間山から白糸軽石が、そして御嶽山から第一軽石が飛来しました。御嶽第一軽石は10万年間です。

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日本でもっとも有名なテフラは、2万8000年前に鹿児島県の姶良カルデラから噴出して日本列島だけでなく東アジアにまで広がった丹沢火山灰です。南九州のシラス台地をつくった入戸(いと)砕流から舞い上がった火山灰です。群馬県でも15センチの厚さがあります。ただし、よほど条件に恵まれないと見ることができません。

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関東ローム層(赤土)は富士山から噴火した火山灰であると言われることがありますが、間違っています。上に赤字で書いた陳述はすべて正しくありません。だから赤字で書いたのです。

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土壌学では、最上部の黒土(クロボク)をA層、その下の赤土をB層と呼んで、時間の経過ととともにA層が下に向かっていくと考えます。これを土壌生成作用と言います。しかし、火山灰地域にこれはあてはまりません。

土壌生成作用は常温常圧の変成作用だと解釈できますが、火山灰地域でその作用は卓越していません。火山灰地域では、レスが毎年堆積することによる地表面の上昇が卓越しています。その場合、上の図の中段(累積・溶脱)と下段(累積・保存)の二つが考えられます。上は、黒土の厚さが常に一定で、黒土/赤土境界が時間の経過とともに上昇するモデルです。下は、時間の経過とともに黒土の厚さが増すモデルです。火山灰地域では、下のモデルが成立しています。黒土も、赤土も、それが堆積したのです。地層です。

火山灰地域に赤土(ローム)ができるメカニズムは次のように説明できます。

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旧石器時代の人々の生活を描いた漫画の遠景には、しばしば火山が書かれます。その火山はたいてい噴火していますが、あれは正しくない想像です。発掘で出土した石器の年代を火山灰との上下関係で決める手順に惑わされたものです。火山は、めったに噴火しません。日本には100以上の活火山がありますが、毎年噴火する火山は五指にも足りません。

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日本第四紀学会のシンボル漫画(園山俊二)

では、最上部が赤土でなく黒土なのは、なぜでしょうか?いくつか考えがありますが、まだ完全に説明することはできていません。どうやら自然のしわざではな人間のしわざのようです。黒土は、森林ではなく、草原植生を意味するようです。

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赤土と黒土は風が運んでつくったレスですから、その堆積速度は火山からの距離によりません。その堆積速度はどこでも毎年0.1ミリ程度です。1000年で10センチ、1万年で1メートルになります。厚さ5メートルの赤土を見たら、そこに5万年を感じ取りましょう。

赤土と黒土を目印に使えば、1万年前の100年を見分けることができます。現在から遡った時間を測る放射年代測定では、1万年前を誤差1%で測ることはできません。1万年前の100年は区別できません。

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テフラとレスの重なりの実例をいくつか紹介します。有珠山1977年火山灰の表面を6年後に撮影しました。レスはまだできていませんが、草が生えています。同じ有珠山の1882年火山灰と1663年火山灰の間には黒土が3センチほどあります。219年間に堆積したレスです。榛名山の古墳時代の2回の噴火の堆積物の間にも薄い黒土が挟まれています。考古学者によると、2回の噴火の時間差は25年ほどだそうです。

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春になると、中国大陸から黄砂がやってきます。いまは衛星画像でそれを見ることができます。

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2001年3月20日の衛星画像です。日本海に黄色い帯が見えます。日本列島にかかっている白い雲とはっきり区別できます。黄砂と言いますが、砂ではありません。もっとずっと小さい粘土サイズの粒子です。

赤土や黒土の中に中国大陸からやって来た黄砂が混じっているのは確かですが(大陸起源の粒子は同位体比が日本列島と違うのを利用して確かめられています)、その量はほんのわずかです。ほとんどの粒子は近隣の裸地から地表風で運ばれてきたものです。火山灰や軽石をまき散らす噴火を近い過去にしたばかりの地域、そういう火山のとくに東側の地表に、赤土や黒土がよくみられます。火山がない四国地方には、赤土や黒土がほとんどありません。


もっと詳しく知りたい人へ
史料に書かれた浅間山の噴火と災害(過去1000年間)
1999年5月25日の強風とレス形成プロセス
日本に広く分布するローム層の特徴とその成因(1995年)
新潟焼山早川火砕流噴火の炭素14ウィグルマッチング年代(2011年)
榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定(2015年)

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