見出し画像

6月12日 火山の冬

今日は、ちょっと息を抜いて、火山に関するお話をします。うんちくを語ります。眉につばをつけつつ気軽に聞いてください。ウソは言いませんが、本当かどうかよくわからないお話が多いです。歴史をさかのぼって事実をつかまえようとするのは尊いし推奨されるべきことですが、どれほど努力しても間違いのない事実が確認できるまで至るのはなかなかないものです。

スライド1

インドネシアのスマトラ島のトバ火山で7万3500年前に、第四紀における世界最大の噴火が起こりました。長辺100キロ・短辺40キロのトバ湖は、その結果として生じたカルデラです。

スライド2

右下に挿入したグラフを見てください。横軸が時間で、縦軸が海水の酸素同位体比です。酸素同位体比は海水の温度を示していると思ってください。7万3500年前は、前回の温暖期から氷期に移り変わるときにちょうど当たります。このトバ火山の噴火で地球に火山の冬が訪れて、氷期への移行が加速したと信じる人がいます。

火山噴火が気候に影響を及ぼした事例として、1783年の夏にヨーロッパで広く観察されたブルーヘイズが有名です。

スライド3

ベンジャミン・フランクリンは凧の人です。雷鳴がとどろく中、凧をあげてビリビリするから電気だと言った人です。好奇心が人一倍強かったのでしょう。自分が体験した大気異常を積極的に書き残したのは納得です。

1783年の6年後の1789年にフランス革命が起こって、最終的にマリー・アントワネットがギロチン処刑されました。世界史上に特筆されるこの革命の遠因になった1783年の大気異常とそれによってもたらされた農作物の不作は、日本の浅間山噴火によると考える人がいますが、いまでもいますが、それは違います。

浅間山の1783年噴火は5月8日に始まりましたが、それはとても小さな噴火でした。そのあと3か月間、浅間山は何度か噴火しましたが、大きなものはひとつもありませんでした。しかし、8月上旬になってついにクライマックスが訪れました。軽井沢に軽石が降り積もり、吾妻火砕流が六里ヶ原に広がり、鬼押出し溶岩も山頂から北に向かって流れ出しました。そして8月5日に土石なだれが発生して、鎌原村などで1492人が死亡する大惨事に至りました。大勢の死者が出たことにより浅間山1783年噴火は世界的に有名になりましたが、8月の噴火では6月から7月にヨーロッパ各地で見られたブルーヘイズを説明できません。間に合いません。

ブルーヘイズの原因は、ヨーロッパのすぐ風上側にあるアイスランドのラカギガルの噴火だったことが、いまはわかっています。長い噴火割れ目から大量の玄武岩溶岩をじゃあじゃあ流し出しました。噴火開始は6月8日でした。ヨーロッパ各地でブルーヘイズが、6月30日あるいは7月1日から観測され始めた事実とよく符合します。

スライド4

スライド5

ヨーロッパとアメリカ北東部の29地点の平均気温を夏(上段)と冬(下段)に分けてグラフにしました。夏も、冬も、1783年の翌年から4年間は平年より下がりました。1786年夏の平均気温は平年と比べて1.5度も低くなりました。日本では天明の大飢饉の時期に当たります。あ、日本の天明飢饉は浅間山の噴火のせいで起こったと信じている人がいまでも多いようですが、それも違います。天明飢饉は天明二年から天明八年まで続いたとされます。浅間山が噴火した天明三年(1783年)より前から始まっていました。

ヨーロッパ各地で1783年夏にブルーヘイズが確認されたのは確かですが、それが気温低下とどれほど関係するか、じつはよくわかりません。火山噴火に地球大気の温度を下げる効果があるかどうかすら、はっきりしません。地球大気が寒冷化しようとしているとき、火山噴火がそのきっかけを与えることはあるでしょう。ちょうど、過冷却の水がはいった容器をはじくと凍るように。

スライド6

硫酸塩エアロゾル

地球大気の温度を下げる能力が火山噴火にあると信じる人たちは、火山灰よりも硫酸塩エアロゾル(硫黄酸化物)を気にします。火山が大気に注入した硫黄の量は、鉱物結晶のなかに包み込まれた小さなガラス部分を化学分析してマグマが含んでいた硫黄の割合を知ったあと、噴出量を掛けて求めます。

スライド7

玄武岩マグマは爆発力が弱いですが、硫黄を多く含みます。流紋岩マグマは爆発力が強いですが、硫黄を少ししか含みません。ただし、硫黄の含有率はたいして変わりません。せいぜい1桁しか変わりません。いっぽうマグマ噴出量は何桁も変わります。マグマを大量に出せば出すほど、地球大気にたくさんの硫黄が注入されます。大気に注入される硫黄の量は、硫黄の含有率よりも噴出量でほとんど決まると考えられます。爆発力もあまり関係なさそうです。

スライド8

氷床コア

グリーンランドや南極の上にのっかている大きな図体の氷河を氷床といいます。そこには、毎年降った雪が氷となって蓄積されています。地層と同じです。そうやってできた氷の水素イオン濃度を測ると、夏と冬が区別できます。1セットずつ数えることによって年数がわかります。初期に行われた1980年の調査では、グリーンランドで過去1万年が数えられました。

そして、1815年と1783年の水素イオン濃度がとくに高いことがみつかりました。それぞれ、インドネシアのタンボラ火山とアイスランドのラカギガル火山が大噴火した年に当たります。氷には過去の火山噴火が記録されていることがこのときわかったのです。

スライド9

最初に得られた大きな成果は、アイスランド島にバイキングが入植した10世紀にあったと伝わっていたエルドギャオの大噴火が、934年だったとわかったことです。その後この研究は国際協力によって発展し、1993年7月には過去25万年を記録した3025.8メートルの氷コアが採取されました。また、南極でも同様の調査研究が行われました。ただし、氷に残されたシグナルの大小は、噴出量だけでなく、火山の緯度と噴火が起こった季節にも依存するので、注意が必要です。

スライド10

霜年輪

樹木の年輪は、6月末から8月末までの成長期にそのほとんどができます。残りの10ヵ月はほとんど成長しません。だから年輪ができるのです。この成長期のなかに、寒い日が訪れて気温が氷点下になると形成中の年輪に傷がつきます。これを霜年輪と言います。

スライド11

上の写真は、モンゴルのベニマツにできた霜年輪です。536年の年輪が大きく乱れています。翌537年の年輪も狭い。536年は下で説明するように、地球上の各地で大気異常が観察された年です。

霜年輪は、森林限界のすぐ下のギリギリ環境で生育している樹木にできます。夏季に、寒気団が局地的に南下した場所にできます。火山噴火がそのような異常な大気循環をつくり出したと考えるわけです。風が吹けば桶屋が儲かるモデルのような気もします。

スライド12

そういうわけで、かならずしも火山のそばの樹林に霜年輪ができるわけではありません。影響はときに地球の裏側に及びます。カリフォルニア州のホワイト山脈にみられる紀元前1626年前の霜年輪は、遠くギリシャのサントリニ火山の噴火によるものだと考えられました。もしこれが本当なら、ミノア文明を滅ぼしたとされるサントリニ火山のカルデラ破局噴火が起こったのは、その2-3年前だったと特定されます。

スライド13

ミステリークラウド

日本には書いた文字の歴史が長くあるから、霜年輪を調べても新しいことはわからないと思うかもしれませんが、それは違います。日本の霜年輪は日本列島の火山噴火を記録しているわけではありません。地球の裏側で起こった大噴火が記録されているかもしれないから、期待を持って調べてみましょう(と、20年くらい前から言ってるけど、成果は出ていません)。

火山が特定できない大気異常を、ミステリークラウドと言います。有名なのは、旧約聖書『出エジプト記』にある「エジプト全土が丸三日間、真っ暗だった」です。

スライド14

そこには、こう書いてあります。紀元前13世紀のことです。いまから2200年も前のことです。エジプトの近くにも火山があるそうですが、私は行ったことがないので、これ以上のことはわかりません。

スライド15

モンゴルのベニマツに霜年輪がみられた536年が、もっとも顕著なミステリークラウドが観察された年です。ただし、正午の太陽で人の影ができなかったという話はよくわかりません。雲が太陽を隠せばいつも影はできないでしょうに。パプアニューギニアのラバウル火山の噴火による説がありますが、榛名山で古墳時代に起きた噴火の2回目もちょうどそのころにあたります。

スライド16

紀元前44年のミステリークラウドも顕著でした。ちょうどシーザーが毒殺さ
れた年にあたり、「月が血の色をしていた」と書いた文字記録もあります。エトナ火山の噴火が原因だろうと言われていますが、積極的な証拠はとくにありません。

日本では、地震学の大家である大森房吉が806年から1814年までの文字史料から29の事例を収集しています。そのうち、915年8月は十和田湖の噴火だったことがその後わかりました。1108年10月は大森房吉が書いたように浅間山の噴火でした。

スライド17

夏がなかった年、1816年

1815年4月10日のタンボラ噴火の翌年(1816年)は夏がなかったとしてよく知られています。"The year without a summer" は英語の決まり文句です。1816年を指します。

スライド18

当時のイギリス貴族は、スイスの山の中で夏を過ごすのが通例でした。例年のように避暑に訪れたのにもかかわらず、いっこうに夏が来ないレマン湖のほとりの別荘に、バイロン卿が友人たちを呼び集めてこう言いました。ぞっとするような怪奇小説を書こうではないか。こうしてできたのが、シェリーの『フランケンシュタイン』とポリドリの『吸血鬼(バンパイア)』です。バイロン卿自身は ”Darkness” という詩を書きました。

スライド19



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?