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浅間山の山体崩壊と土石なだれ

1. 黒斑山が崩壊してできた湯の平

小諸市の高峰高原から黒斑山を目指して登山すると、2時間足らずで森を抜けて山頂に立つことができる。東側は断崖になっていて、目前の前掛山との間に湯の平が大きく広がる。2万4300年前に当時の浅間山だった黒斑山が東に大きく崩れてできた地形である。そのあと誕生した前掛山の中心火道が東に2kmずれていたために成長しても黒斑山を覆いつくすことができず、湯の平に広い窪地が残った。

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白煙を上げる釜山、その向こうに前掛山、黒斑山、そして雪をかぶった北アルプス。

荒牧重雄は1962年の地質図で、佐久市塚原に展開する多数の流れ山を黒斑山東部の崩壊と関連づけたが、長野原町応桑の流れ山は浅間山からの崩壊堆積物ではなく、もっと古いと考えた(1)。その後1993年に地質調査所から地質図を再版したとき、両者とも黒斑山の崩壊によるものだと認めた(2)。

黒斑山の大崩壊でもたらされた地層が塚原と応桑だけでなく、東に遠く離れた前橋にも広く分布すると私が確信したのは1990年代の初めである。1995年12月からインターネットにホームページを開設して、現地で観察した結果を写真付きですみやかに掲載するのを繰り返した。前橋市にある国指定天然記念物・岩神飛石は浅間山からはるばる流れて来たものだと2003年9月4日の上毛新聞に寄稿したところ、赤城山から流れてきたと信じていた地元住民の関心を引いたという。同紙記者が教育委員会と神社を取材して、『赤城山?浅間山?「本籍」どっち 前橋の「岩神の飛石」』と題する後日談記事を10月26日に大きく掲載した。

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塚原土石なだれが広がった範囲 ○赤岩、□流れ山、◇堆積物断面。浅間山から東に伸びる楕円は崩壊直後に噴出した板鼻BP2軽石(50cm)。地図をクリックするとグーグルマイマップが別窓で開きます。

この崩壊と堆積物に認められる特徴を、2007年と2010年に出版した2枚の浅間山地質図(3, 4)とその説明書ともいうべき紀要論文(5)で言及したが、これだけに焦点を絞って詳しく紹介したことはこれまでなかった。この地層は利根川流域では前橋だけでなく伊勢崎や高崎にも分布していて、千曲川流域では上田まで分布していることが最近になってわかった(6)こともあり、20年以上にわたって各地で撮りためた写真とともにここでまとめて報告したい。なお、私の上毛新聞寄稿と地質図出版と重なるころに吉田英嗣がこの崩壊と堆積物に関する一連の研究を発表した(7, 8, 9)。

2. 土石なだれ堆積物と地形

この堆積物は、各地で別々の名前で呼ばれていた。塚原泥流、応桑泥流、中之条泥流、前橋泥流、そして上田泥流である。泥流と呼ばれていたが、セントヘレンズ山の1980年5月18日崩壊を知ったあとの私たちは、これが水の流れで運ばれたのではなく土石だけで流れてきたことをよく理解する。その流れ(および残された堆積物)にここでは土石なだれの語をあて、古くからよく研究されていた塚原の地名を冠して塚原土石なだれと呼ぶことにする。

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前橋市の岩神飛石

赤岩 塚原土石なだれの中には特徴的な赤い巨岩が含まれている。これは大円錐火山の中心火道の近傍に形成されたアグルチネートである。火口から吐き出された溶岩餅が積み重なってできた。佐久市赤岩にある赤岩弁財天を模式地としてこれを赤岩と呼ぶ。千曲川流域では軽井沢町発地(ほっち)や上田城にも赤岩がみつかる。吾妻川では中之条盆地で稲荷石とうけいしと呼ばれ、利根川と合流してからは、前橋市で岩神飛石として祀られている。高崎市でも聖石(ひじりいし)として小さな赤い鳥居が立てられて烏川を渡る橋の名前にもなっている。烏川の河床には他にも赤石と川籠石(こうごいし)があり、聖石と合わせて烏川三石と呼ばれている。伊勢崎市を流れる広瀬川では龍神宮として祀られている。赤岩の分布を上の地図に示した。

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長野原町応桑の流れ山

流れ山 土石なだれ堆積物の表面は泥流や火砕流のような平坦にはならず、でこぼこしている。佐久市塚原でこの地形が注目されたときは泥流丘と呼ばれたが、いまは流れ山と呼ぶのが一般的である。流れ山はひとつだけではなく多数で群れをなす。顕著な流れ山地形は北側の長野原町応桑にも展開している。八ッ場の狭窄部をくぐり抜けたあとの中之条盆地にも流れ山はあるが、前橋・高崎・伊勢崎地域では認められない。上田盆地でも認められない。

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佐久市岩村田のパッチワーク構造

断面 土石なだれ堆積物の断面は、ツギハギのようになっていて何種類もの地層が露出する。この構造をパッチワークと言う。塚原土石なだれの断面には、色とりどりの火砕流堆積物(複数)、溶岩、湖底堆積物などが認められる。前橋市下川町の利根川左岸には直径2mの火砕流堆積物ブロックが露出する。80kmも流れてきたのに、非溶結の火砕流堆積物がこれほどの大きさで残っていることには驚くしかない。強度がゼロに近いとみられる降下軽石の堆積物ですら、直径10cmのブロックとしてその対岸(高崎市中島町)で確認できる。

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前橋市下川町の利根川左岸に露出した巨大ブロック断面
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高崎市中島町の中洲に露出する湖底シルト
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高崎市中島町の中洲に露出する降下軽石堆積物

パッチとパッチの間には泥質のマトリックスがある。上田や前橋などの縁辺部に行くとマトリックスが占める割合が増す。当時の河床から拾った円れきがその中によくみつかる。

段丘 この堆積物は、千曲川沿いの佐久盆地と上田盆地にも段丘をつくっているが、利根川にとくに顕著な段丘を形成した。群馬県庁から前橋駅方向に伸びる前橋台地がそれである。10km上流の吾妻川合流点にあるくさび型の吹屋原も前橋段丘につながる(9)。 

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群馬県庁(左のひときわ高いビル)が乗る前橋台地と利根川に面した崖
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くさび型の吹屋原。左が吾妻川、右が利根川。

関東平野への利根川出口は、この堆積物で厚く埋まった。直後の利根川は井野川を流路に選んだ。いまの井野川がその流量に似合わない広い川幅をもっているのはこのためである。榛名山の相馬山が2万年前に崩壊したとき、井野川は陣馬土石なだれで埋め立てられた。このため利根川は広瀬川に移って、赤城山の南縁に沿って流れるようになった。そして16世紀に、榛名山の必従河川のひとつに人為によって閉じ込められて現在に至る。

3. 堆積物量と到達距離

塚原土石なだれの分布面積は780 km2、最遠到達地点は直線距離で72 km、道のりで100 kmである。もし平均厚さを10 mとすると、浸食される前の堆積物量は7.8 km3になる。

吉田英嗣と須貝俊彦(10)は、関東平野北西部で報告されている多数のボーリングデータを使って堆積物量を4.9~5.4km3と推定した。さらに、崩壊した黒斑山の頂上が2900 mにあったとして火山体を再構築して、崩壊量が4.0 km3だったと計算した。彼らは上田に展開した堆積物を認めていないから、それを含めれば堆積物量は6 km3程度になろう。

八ヶ岳が30万年前に崩れて七里岩を形成した韮崎土石なだれの堆積物量は10 km3を超える。塚原土石なだれより大規模だが、甲府盆地を横断して御坂山地まで乗り上げたとしても到達距離は45 kmにしかならない。直線距離で72 kmに達する塚原土石なだれの到達距離は、30万年前に崩れたカリフォルニア州シャスタ火山の70 kmと同じか、それを上回る。

4. 崩壊した理由

流れ山の上にロームを挟まずに板鼻BP2軽石が直接乗る。ロームは風塵堆積物であるから、両者の間に年単位の時間差はない。セントヘレンズ山の1980年5月18日崩壊と同じように、崩壊直後にプリニー式噴火が発生したと考えられる。地下から突き上げたマグマが黒斑山を変形させたのち崩壊を導いた。荷重から解放されたマグマはただちに空中に噴き出してプリニー式噴火を始めた。

板鼻BP2軽石がロームを挟まずに流れ山を直接覆うのを私が確認したのは、次の6地点である。中之条町役場(1982年6月)、白糸の滝北(1985年11月、1992年11月)、塩沢湖(1991年5月)、軽井沢駅裏工事現場(1993年10月)、浅間大滝駐車場(2007年4月)、熊川(2010年5月)。下の写真に掲げる熊川は自然露頭だから、いまでも観察できるだろう。草軽電鉄路線跡沿いにある。

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熊川の露頭全景(上)と、板鼻BP2軽石と塚原土石なだれ接触部分拡大(下)。2010年5月15日撮影。

姶良丹沢火山灰と板鼻BP2軽石の間にはロームが37センチ堆積している。この地域のこの時期の堆積速度は10cm/千年だから時間間隔は3700年と見積もられる。したがって、姶良丹沢火山灰を2万8000年前とすると、板鼻BP2軽石すなわち山体崩壊と塚原土石なだれは2万4300年前に起こったことになる。

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浅間山噴火の規模(M)と年代の関係。規模は対数目盛で、M5が10億トン。溶岩を含まない。BP2のときに黒斑山が崩壊した。

5. 前掛山も崩れるか?

黒斑山は、M4を超えるプリニー式噴火を数百年おきに3回(板鼻BP0、BP0.5、BP1軽石)繰り返したあと、4回目の直前に崩壊した。1万年前ころから成長を始めて2568mに届いたいまの前掛山も、最近になってM4を超えるプリニー式噴火を古墳時代(290年ころ)、平安時代(1108年)、江戸時代(1783年)と、3回繰り返した。黒斑山と同じように数百年おきだ。さて、いまから数百年後に起こるだろう4回目のプリニー式噴火のとき、前掛山でいったい何が起きるだろうか。

引用文献

(1) 荒牧重雄(1962、1968)浅間火山地質図。同説明書(地団研専報14)。
(2) 荒牧重雄(1993)浅間火山地質図。地質調査所発行。
(3) 早川由紀夫(2007、2010、2018)浅間火山北麓の2万5000分の1地質図。長野原町営浅間園発行。
(4) 早川由紀夫(2010)浅間山の噴火地図 1:50,000。NPO法人あさま北軽スタイル発行。
(5) 早川由紀夫(2010)浅間山の風景に書き込まれた歴史を読み解く。群馬大学教育学部紀要自然科学編、58、65-81。
(6) 富樫均・横山裕(2015)上田盆地の地形発達と上田泥流の起源。長野県環境保全研究所研究報告、11、1-8。
(7) 吉田英嗣(2004)浅間火山を起源とする泥流堆積物とその関東平野北西部の地形発達に与えた影響。地理学評論、77、544-562。
(8) 吉田英嗣・須貝俊彦(2006)24,000年前の浅間火山大規模山体崩壊に由来する流れ山地形の特徴。地学雑誌、115、638-646。
(9) 早川由紀夫(2016)前橋高崎地域の自然史地図。キプカスピリット発行。
(10) Yoshida, H. and Sugai, T. (2007) Magnitude of the sediment transport event due to the Late Pleistocene sector collapse of Asama volcano, central Japan. Geomorphology, 86, 61-72.

この記事は、古今書院地理2019年7月号32-39を再構成したものである。



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