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9万年前、有明海を渡って島原と天草に届いた阿蘇4火砕流

島原半島までは80キロ

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島原の乱で有名な原城(南島原市南有馬町)は、阿蘇4火砕流が9万年前に海岸に残した高さ30メートルの平坦面の上にある。火砕流堆積物がつくる台地の広がりは南北800メートル、東西400メートルだ。阿蘇4火砕流は有明海の水面を80キロ疾走してきて、ここに堆積物を厚く残した。

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原城跡の説明看板にあった阿蘇4火砕流の分布図。有明海を渡ったことがよくわかる。もっとも遠くまで達したのは山口県宇部市だ。周防灘を渡って、ここよりずっと遠い120キロまで届いた。阿蘇4火砕流は、日本でもっとも遠くまで走った火砕流だ。

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海食崖の下半部は護岸工事で隠されて見えないが、上半部に厚さ15メートルの阿蘇4火砕流堆積物が露出している。やや紫がかった灰色をしている。

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目の高さの断面に近づいて観察する。ここは表層風化によって黄色くなっている。よく目にする火砕流堆積物の色だ。火山灰の中に埋まっている軽石の最大直径は20センチ、岩片の最大直径は2センチ。軽石は水より軽いから大きい粒子がここまで届いた。岩片は重いから大きな粒子はここまで届かなかった。数も少ない。

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阿蘇4火砕流の基底に降下堆積物は認められない。砂礫層の上に、表土を挟むことなく直接重なっている、ここ島原は風上に当たるが、風下に当たる大分県でも基底に降下堆積物は挟まっていない。阿蘇4火砕流は、それに先行してプリニー式噴煙柱を数十時間維持することなく、いきなり発生したらしい。1700キロ離れた北海道東部に、この噴火による火山灰が厚さ10センチも堆積していることが知られているが、それは大きく広がった火砕流から立ち上った火山灰のうち細かい粒子が風に乗って長距離移動したのち降り積もったものであろう。

天草下島までは90キロ

口之津港からフェリーで早崎瀬戸を天草下島に渡る。30分で鬼池港に着く。

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鬼池港の南3キロ、天草市五和町御領に高さ20メートルの台地が広がっている。これも阿蘇4火砕流の堆積物だ。細い谷が切り込んでいるが、南北2キロ、東西3キロの広い面積を占めている。

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産総研のシームレス地質図によると、さらに南の広瀬川流域と、さらに西の内野川流域にも分布しているらしい。ピンクに着色された95番が阿蘇4火砕流である。

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東禅寺が乗る台地の下部に露出する阿蘇4火砕流の堆積物。強く溶結してる。加工しやすいので、この種の溶結凝灰岩は九州各地で灰石と呼ばれてさまざまな用途に利用されている。ここの灰石はとくに御領石と呼ばれて珍重される。

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溶結凝灰岩の断面に岩谷観音が彫られている。18世紀の作だという。

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堆積物を構成する粒子はとても細かい。五和中学校の南東にある石切場跡の断面に舌を当てたら吸い付いた。

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垂直に伸びた細いガスパイプが何本もある。火砕流が残した堆積物であることの決定的証拠だ。

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阿蘇4火砕流の堆積物は黒崎海水浴場にも露出する。

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白い火山灰1メートルの上に、斜交層理をもつ砂が堆積している。阿蘇4火砕流がこの地に広がったあと、地表に砂丘を形成したのだろう。砂丘には、まもなく植物が侵入して表土ができるようになり、9万年間で現地表まで10メートルほど積もった。

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火山灰の中に少量含まれる軽石の最大直径はせいぜい5センチだ。岩片はみつからない。

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阿蘇4火砕流台地の上につくられた畑の土は赤い。溶結凝灰岩の表層が赤く酸化したためだろうか。

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標高60メートルの山上には阿蘇4火砕流が届いていない。新第三紀の砂礫層の上に顕著な不整合が認められるが、そこに火砕流堆積物はない。9万年前、阿蘇から来た火砕流の希薄な雲がここを通過したかもしれないが、十分に厚い堆積物を残すことはなかった。

(2019年12月27日観察)

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