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宝永山は従来説通り10万年前にできた古い山体

宝永山が1707年噴火でできたとする説が最近唱えられている。テレビで放送されたり、科学雑誌の表紙で謳われたりもしている。しかし、この新説ははなはだ疑わしい。地質学の基本を無視した暴論だと片付けてよい。宝永山は従来説通り10万年ほど前にできた古い山体である。

その後も続くテレビ放送
・2023年11月26日 NHK大河ドラマ『どうする家康』
・2023年11月25日 テレビ朝日『タモリステーション』

宝永山をつくる地層は西に30度傾斜している。そして東側が大きく削られて断面を露出している。この浸食がいつどんな理由でどうやって生じたかを新説は説明しない。富士山の側火山で断面がこれほど広く深く露出するのは、山頂火口と1707年火口に削られた部分以外にない。特別な要因が説明されてしかるべきである。

宝永山。赤岩ともいう。
富士山頂と1707年火口と宝永山。

浸食されて断面が露出する前の宝永山がどんなかたちをしていたかも、新説は説明しない。もし宝永火口から出た噴出物が堆積してできたとするなら、南東側にだけ積み上がった理由が説明できない。

宝永山は赤岩と呼ばれるように変質して赤褐色を呈しているが、その変質作用がいつどういった理由で生じたかも新説は説明しない。

地上から見上げた宝永山。前景の砂礫は御殿庭モレーン。

新説が、宝永山とともに1707年噴火でできたとする御殿庭は1500年前の噴火で形成された小天狗塚スコリア丘に覆われている。したがって、御殿庭が1707年噴火でできたはずがない。1500年前より古い。宝永山は御殿庭よりさらに古いようにみえる。

白い軽石より上がすべて1707年噴火堆積物。御殿場市水土野で2016年11月に撮影。

富士山1707年噴火はプリニー式だったことがよく知られている。噴火期間は12月後半の2週間だった。御殿場市水土野に降り積もったこの噴火堆積物のどこで宝永山や御殿庭ができたと言うのだろうか。混ざりもののない典型的なプリニー式スコリア軽石堆積物だ。そのような噴火イベントはこの堆積物の間と上下からまったく検知できない。

従来から言われていた通り宝永山は10万年前にできた古い山体である。東に向いた大きな断面は、2万年前に氷河に削られて現れた。

文字史料を引いて1707年噴火中に隆起したと言うひともいるが、それも違う。宝永山は1707年噴火前からあの場所にあのようにあった。宝永火口が拡大して西側がえぐれたので、麓から見るとそれ以前より尖って見えるようになった。

山中湖から見た富士山は左右に肩がある。左の肩が宝永山だ。宝永山の下スロープは上スロープに連続しない。右の肩の小御岳と同じように宝永山も古い山体だから下スロープが出っ張っている。

山中湖からみた富士山。左側に宝永山の肩、右側に小御岳の肩がある。どちらも10万年前ほどの古い火山だ。

剣ヶ峰と宝永山を通る地質断面を描いた。

宝永山を通る断面図。地理院地図を利用した

1707年火口内の北西側は崖錐に覆われているところが多いが、その隙間を観察すると宝永山赤岩とよく似た地層が露出する。星山期の火山灰だ。宝永山赤岩とよく似た赤褐色に変質している。変質をまぬがれた溶岩も見える。全体が宝永山赤岩と同じ向きで西に傾いている。いまの山頂から裾野を伸ばした富士宮期の溶岩がその上に傾斜不整合で重なる。十二薬師岩ダイク群はこの溶岩を貫いているから、富士宮期またはそれに続いた須走期に貫入した。最上層の溶岩にはじょうご型の断面が見える。十二薬師岩ダイク群のひとつに連続するように見える。

1707年火口を挟んだ向かい側に宝永山赤岩とよく似た赤褐色の地層がダイクに貫かれて露出している。赤岩と同じように西に傾斜している。

東斜面は、1万3000年前のモレーンそして1707年スコリアにすっかり覆われていて星山期と富士宮期の露出はない。

宝永山付近の簡略地質図。黄細線は1707年スコリア50センチ。

地質学による過去事象の解明は、対象となる地層と地形の特徴をできるだけたくさん把握して、それらすべてを矛盾なくできるだけシンプルに説明するモデルを提出することである。歴史は一回こっきりで再現できないから、過去に起こった事象は究極的には証明できない。もっとも確からしいことがわかるだけだが、そうやって得た解釈は、限られた特徴にだけ注目して立てた一面的な解釈よりずっと確からしい。


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