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能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから


死者230人 9割が家屋倒壊による

能登半島地震から3週間が過ぎて死者カウントが増えなくなってきた。最終的には230人ほどに落ち着きそうだ(直接死のみカウント。災害関連死は除く)。死因は、火災10人、土砂災害8人、津波2人が、いままでに報告されている。残りは家屋倒壊による死者で、210人ほどになる。9割だ。生き埋めになって死亡した人の数は、土砂災害を加えて220人ほどだ。

石川県発表から作成。ただし、輪島市河井町の安否不明10人は火事による死者と判定した。
警察庁に取材したNHKニュースから1月31日作成。低体温症・凍死が32人。

死者は最終的に236人になるとみられる。行方不明14人を含む。そのほとんどは輪島朝市火災による。(2月13日追記)

地震当日から救命救助に当たった自衛隊の報告では、救出した生き埋め者は、2日4人、3日3人、4日4人の合計11人だったと読める。これは、2016年4月熊本地震の16人より少ない。

熊本地震の直接死は50人だった。津波と火災による死者はなかったから、すべて生き埋めによる死者だ。生き埋めになったが救出された人の割合は24%(16/66)だった。これと比較すると、能登半島地震で救出された人の割合はわずか5%(11/231)だ。極端に少ない。なぜこれほどの違いが生じたのか。政府の初動が遅れたのではないか。調べてみたら、そうだったことがわかった。その背景もわかった。

法改正で新設された特定災害対策本部

2021年5月に災害対策基本法を改正して、それまで都道府県知事が対策本部長になっていた災害のうち大きなものを特定災害として、国務大臣を本部長とする対策本部を国が設置することにした。2016年4月熊本地震のときは、特定災害対策本部の規定がまだなかったから、国が災害対策本部を設置するとき自動的に非常災害対策本部になった。しかし今回は選択肢があった。能登半島地震対策の初動で国は、非常災害対策本部より格下の特定災害対策本部を設置する誤りを犯した。本部長は内閣府防災担当大臣。総理大臣ではない。

2021年5月改正前
2021年5月改正後

2021年5月の法改正で新設した特定災害対策本部は、非常災害に至らない、死者・行方不明者数十人規模の災害のとき設置するものとされる。能登半島地震には当てはまらない。これは、230人の死者がカウントされたいまだから言えるわけではない。地震学の知識を少しでも持っていれば、地震後ただちに発表された震源位置と震度7,そしてマグニチュード7.6、深さ16キロを聞いてただちにわかったことである。

じっさい、1日20時03分に開催された特定災害対策本部会議の冒頭で、気象庁から出席した気象防災監が「震源はごく浅く、マグニチュード7.6。速報値であるが、これは阪神・淡路大震災のマグニチュード7.3を上回ったもの。揺れそのもので、相当の被害が出ている可能性を考えている」と発言した(議事録)。大津波警報にばかり世間の目が向いていたとき、気象防災監は地震専門家として、揺れによって大きな被害が発生していると正しく警告した。いまそのとき大勢が生き埋めになっているとする深刻な指摘だ。しかし、会議は途中で立ち止まることなくそのまま進行した。

私自身は、1日19時にこのようなツイートを連投して、つぶれた家の下敷きになっているひとたちをいますぐ救出しないといけないと訴えた。

県知事が自衛隊に災害派遣要請 ただし、明朝、朝一で

21時に、馳(はせ)知事が18時25分に投稿したツイートに添付されていたホワイトボード画像を見て、能登半島の市町から石川県に情報がまったく上がってないことを知った。1995年1月に神戸を地震が襲ったときの情報断絶と同じだ。被害がひどすぎて報告が上がらないのだ。地震被災地はたいへんなことになっているにちがいない。知事が書く「明朝、朝一」の対応では手遅れになると憂えた。私のこのツイートは43万回閲覧された。

後日知ったが、馳知事は19時30分ころ記者団に対して「午後5時過ぎには、副知事を通じて自衛隊の派遣要請も出し、速やかに対応していただけると思うが、夜に入ったので、あすの朝、明けてから本格的な情報収集や救命活動に入ることになる」と述べていた。救命活動はともかく情報収集もあすの朝からやると言った。これでは自衛隊は明朝まで動けない。明朝まで動きを封じられた。

その前、18時30分に開かれた石川県災害対策本部員会議で馳知事は、津波に注意して高台へ退避するよう呼びかけただけ。家屋倒壊によって生き埋めになっているひとをただちに救出しろと言わなかった。23時45分に開かれた2回目の会議でも同じだった。人命救助の語は出たが、家屋倒壊の語は出なかった。津波からの退避にかまけて生き埋めに想像が及ばなかったのだろう。

非常災害対策本部に格上げ

23時35分、官邸で岸田総理が記者たちを前にして状況を説明した。住宅倒壊の語がこの地震災害の応急対策で初めて出た。津波警戒一辺倒からようやくシフトした瞬間だ。説明の最後に岸田総理は、特定災害対策本部を非常災害対策本部に格上げして、みずからが本部長になると宣言した。しかし、その初会合は翌朝に持つと述べて官邸をあとにした。

記者の質問に答える岸田総理、1日2335。首相官邸ページに録画(3分30秒)と書き起こしテキストがある。

翌朝、岸田首相が官邸にあらわれたのは8時52分。馳知事と電話会談したあと非常災害対策本部の初会合を9時23分に開いた。じつに地震から17時間後だった。わずか55分で初会合を開いた2016年4月熊本地震と比べると、無為に過ぎた時間の長さに慄然とする。

まとめと反省

地震発生は16時10分。特定災害対策本部の初会合は20時03分だった。政府は4時間もこの災害を不当に過小評価した。初会合から3時間がすぎて岸田総理は誤りに気付き、みずからが本部長となる非常災害対策本部を設置すると23時36分に記者団に語ったが、ただちに会合を招集することはなかった。その結果、1日20時03分の特定災害対策本部会議で決めた応急対策が、翌2日9時23分まで13時間継続した。本部長が防災担当大臣で、総理大臣でなかったことは自衛隊の士気に大きく影響しただろう。消防の救命救急活動も、必要最大限のものにはならなかっただろう。

正月休みの元日に起きた、半島で道路アクセスが悪かった、など悪条件は確かにあった。しかし、それらは理由にならない。生き埋めになった大勢のひとの命を救うために「できることは全てやる」必要がほんとうにあった。少なくとも2016年4月熊本地震(M6.5)を上回る救命救急活動を迅速に展開する必要があった。

地震の翌日2日から4日まで、救命救急のために重要だとされる最初の72時間は冬の北陸地方にはめずらしい好天が続いた。風が弱くて視界もよく、ヘリコプターを飛ばすのに支障ない天候だった。不幸中に訪れたあの幸いを生かすことができなかったのが残念だ。

(扉写真は、1月5日17時、帝国ホテルで開かれた民間主催の新年会で防災服の胸に赤いバラをつけてあいさつする岸田首相。首相官邸ページから)

付録

首相動静

●元日の首相官邸の様子は朝日新聞2月1日が詳しい。ただし有料記事。


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