見出し画像

5月8日(1)火砕流と熱雲

火山で発生する流れ現象にはさまざまなものがあります。まず、火砕流と熱雲(ねつうん)をこの記事(1)で説明します。次に(2)ラハール、そして(3)土石なだれを説明します。今日は3記事からなります。

スライド1

日本のほぼ裏側、カリブ海の西インド諸島にマルチニークという島があります。フランス領です。住んでる黒人たちはすらりと背が高くて、クロワッサンがとてもおいしい島です。日本から行くには、ニューヨークとプエルトルコで乗り換えが2回必要です。遠回りになりますが、パリを経由すれば乗り換え1回で行けます。(note記事の図はすべて、クリックすると大きくなります。)

この島の北端にあるモンプレーという火山が1902年5月8日に激しく噴火して(あれ、今日だ)、サンピエールという人口2万8000人の街が文字通り壊滅しました。上の写真左は5月30日の噴火写真です。熱雲が海岸まで届いています。先端からの煙がまっすぐ上に立ち昇っているから、この熱雲はもう前進してないことがわかります。

スライド2

左上の写真は熱雲にことごとく破壊されたサンピエール市です。火山に直交した石壁はなぎ倒され、火山に向かった壁だけが残っています。強い爆風が襲ったことがわかります。中上の写真は郊外にあった精神病院の跡地です。石壁が破壊された様子がよくわかります。

右上の写真は牢獄です。この中に留置されたていたシバリスという罪人(ともうひとり)だけが生存者でした。石造りの牢獄が壁の陰にあって、狭い入り口が火山と反対側に開いていたのでシバリスは助かりました。彼は、残りの半生を、大やけどした背中をサーカスで見せて暮らしたそうです。

下の大きな写真は、2009年2月のモンプレー火山とサンピエールです。山頂には溶岩ドームが鎮座しています。サンピエールは、2万8000人もここに住んでいたのだろうかと疑うような狭さでした。

では、火砕流と熱雲について説明します。

スライド3

噴出物が発泡しているかどうかが両者を区別する鍵です。火砕流と熱雲を区別せず、どちらも火砕流と呼ぶこともありますが、発泡してない岩片からなり、薄い堆積物の場合は熱雲と呼んで区別したほうがよいでしょう。歴史的には、モンプレー1902年噴火で熱雲が先に知られました。そして50年後にアメリカ合衆国で地層の研究から過去の(厚い)火砕流が認識されました。

火砕流

スライド4

浅間山には、江戸時代1783年噴火による吾妻火砕流と、平安時代1108年噴火による追分火砕流が広く分布します。どちらも、1メートルから10メートルに及ぶ厚い堆積物を残しています。追分火砕流のなかにみつかる発砲した軽石は、そのかたちと大きさから追分キャベツと愛称がついています。

画像16

吾妻火砕流の表面をドローンで空から見ました。流れ広がるときにできた模様が積雪で強調されています。

スライド5

浅間山では、1万5800年前に、これらより10倍大きな平原火砕流が発生しました。北も、南も、浅間山の山麓は平原火砕流がつくった厚い軽石火山灰堆積物からできています。その厚さは50メートルに達します。この写真は南の長野県側で撮影しました。

スライド6

これはドローン写真です。平原火砕流の噴出量は100億トン(M6.0)と少なくはありませんが、噴出源にカルデラ地形は認められません。手前を流れるのは湯川です。

スライド7

十和田湖から1万5000年前に噴出した八戸火砕流の噴出量は、平原火砕流の5倍の500億トン(M6.7)です。大量のマグマが一気に大気中に出たため噴出源の地表が陥没してカルデラができました。十和田湖は、このような火砕流噴火3回によって大きく陥没した窪みに水がたまってできました。

スライド8

現代の火山観測が始まってから起こった大規模火砕流として、フィリピンのピナツボ火山の1991年6月15日火砕流があります。このように、あたり一面が火山灰に埋まりました。噴火から2年後の写真なので、地表に緑がまったくありません。

スライド9

火砕流堆積物の断面はこの左写真のように見えます。火山灰の中に丸い軽石が浮いています。右写真のまっすぐ上に伸びるのは砂礫に充填された吹き抜けパイプです。火砕流からガスが脱出するときに火山灰をいっしょに運び去ってしまったので砂礫だけがそこに残りました。吹き抜けパイプの左側にある丸い黒い部分は炭化した樹幹です。

スライド10

実験室で火砕流堆積物の下から空気をうまく送り込むと吹き抜けパイプを再現することができます。炎のようなこのパイプは、北海道屈斜路湖の火砕流堆積物断面に見られるパイプとそっくりです。

スライド11

浅間山の平原火砕流にも、このように吹き抜けパイプが密集した断面があります。平原駅のそばです。

スライド12

同じ小諸市の南城公園では、吹き抜けパイプをたくさんもつ火砕流堆積物の上部がオレンジ色に酸化して、その上に厚さ10センチ程度の細粒層を挟んでラハール堆積物が乗る断面が見られます。ラハールについては次の記事で説明しますが、水によって運ばれてきた泥流や洪水などです。

熱雲

スライド13

雲仙岳の1991年9月15日噴火で大野木場小学校を焼いた熱雲が残した堆積物です。厚さ10センチ足らずの紫色の火山灰です。下の黄色は校庭の土です。右側に挿入した2枚の写真は、この近くの別の断面です。熱雲堆積物の上下に、別の日の熱雲から立ち昇った雲からゆっくり降り積もった火山灰が重なっています。

スライド14

熱雲の破壊力はきわめて強いが、噴出量であらわされる規模は小さい。また、1回発生すると何回も繰り返す特徴があります。自然はなんでもそうですが、小規模な現象は頻繁に何回も起こります。

もっとも広い範囲を破壊した熱雲は、ワシントン州のセントへレンズ山で1980年5月18日に起こった熱雲です(中央右)。30キロ走りました。右上隅に、1902年のモンプレー熱雲が示してあります。これらと比べると、中央やや下に示した雲仙岳1991年6月3日はとても小さかったことがわかります。

古墳時代497年に榛名山二ッ岳から発生した渋川熱雲(右下)はセントへレンズに次ぐ二番目の大きさです。南東部を破線で描いて、群馬大学荒牧キャンパスも飲み込まれたと当初は思ってましたが、そのあとよく調べたら、こちら側では利根川を越えなかったようです。

スライド15

金井東裏遺跡では、渋川熱雲の堆積物の中から甲(よろい)を着た武人の遺骨が2012年11月にみつかりました。渋川熱雲の厚さは10センチほどで、武人は溝の中にうつぶせになって倒れていました。その上に25年の休止を示す厚さ10センチほどの地層を挟んで、厚さ2メートルの伊香保軽石が重なっています。榛名山は古墳時代に2回噴火しました。

→次は(2)ラハールです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?