【考察】どうして「可愛くなりたい」のか

※このツイートから考えてたこと。

なんだかんだしてるうちに、コンシューマー(一般顧客向け)ビジネスを始めて5年経ってしまった。そもそもは学生時代からオークション転売をしていたので、その頃から数えると10年弱にもなるので、人生の30%以上、いやむしろ物心ついてからずっと、コンシューマービジネスに携わっているとも言える。そもそもスクールカーストでも最下位に近い場所にいたので、じっと他人の心の揺らぎや実際の行動を観察するのが好きだったんだろう。

ここ数年、自分では「こういう社会や価値観であってほしい」という理想と「ユーザーの求めているもの」という現実の最大公約数を探し続けるような感覚があったのだけど、考えれば考えるほど、「ユーザーの求めているもの」とは「誰かからの承認」なのではないかと感じられてしまう。

なんだかんだ、かわいいとかモテや、セックスとか。そういうものが強く人の気持ちを動かし、結果的に売り上げもよく立つのだ。

モテとかセックスは儲かるみたいな話になると、すごく嫌な聞こえ方をしてしまうが、扇情的なコンテンツを除いてユーザー自身が自らお金を払っていてその結果売りが上がるという事実は認めなければならない。最近、フェミニズムから派生して、INCELやアンチフェミニズムの言論に興味を持っているのも、そもそも「承認される権利」みたいなものって実はすごく(多くの人にとって)重要なんだろうなと感じられたからだ。

なぜ「可愛い」という言葉はここまで魅力的なのか

本題に入りたい。

どうして、私たちは「可愛い」という言葉にここまで心揺さぶられてしまうのだろうか。「可愛い」の一言だけで、その瞬間に自分自身の存在が全部肯定されて、自分はここに存在して良いのだ!と思わされるのはなぜだろうか。

それは、きっと「優しい」とかみたいに何かのアクション(達)への賞賛ではなく、ただそこにいるだけで発動するのが「可愛い」だからではないか。そして「可愛い」というのは日本独特の概念のように思うが、そもそもは小さく守りたいものといったようなニュアンスも含むことから、守られる存在だという安心感もあるのだろう。

つまり、「可愛い」は次の瞬間に崩壊することがない、状態やアクションへのレスポンスではなく「存在そのものの絶対的肯定」だから強いのではないかということだ。

自分の過去を振り返ってみる

かくいう私も「可愛い」という言葉を渇望していた時期が長くあった。

最近ゆっくり考えていたのだけれど、おそらく原因は家庭環境にある。私は長女だったので厳しく育てられたというのもあったけれど、家系全体として学歴にこだわっているような空気感もあった。そのため、小学校時代の私は頭がかなり良い方だったのだけれど、99点のテストを持って帰ると「なぜ1点落としたのか」ときつく詰められた。テストで100点を取ることも多かったけれど、1人目の子供なこともあり親も100点が当たり前だと思っていたのだろう、満点で褒められることはなく失点ばかりと詰められて育ってきた。

その他色々心当たりはあるけれど、そんなこんなで、めでたく「常に100点のバリューを発揮していないと存在してはいけない人間なんだ!」という歪んだ価値観を持った女子中学生に育ち上がり(残念!)、もちろんテストで毎回1番を取れるわけもなく(残念!!)、それであれば存在する意味がないと中学時代はいつ自殺するかばかりを考えていた。

そんな歪んだ価値観とともに生きづらさを抱えて過ごしてきたが、残念なことに、この価値観は仕事におけるスキルアップや成果を上げることにポジティブに働いてしまうことが多いにある。

「この仕事をうまくやれなければ、自分は存在している価値がない!」と思えたら、寝る時間なんてどうでもよくて、とにかくパフォーマンスを最大にすべく全ての犠牲を払うことができてしまうのだ…。

そんな中、大学生になってはじめて生まれて初めて彼氏ができて、そのあたりから2-3年くらい「可愛い」という言葉への渇望で悩まされていた。

なぜなら、彼氏に毎日「可愛い」と言ってもらえないと、彼女としてそこに存在している価値がまるでないかのように感じられてしまうからだ。「かわいい」と言ってもらうか、何か彼氏に尽くしたりなどしないと、彼女というアイデンティティを持った自分を肯定することができないからだ。

でもこうなってくるとまた別の問題が出てくる「他に"可愛い"女が出てきた時に、自分の存在価値が揺らぐ」のだ。なぜなら「彼女の私」というアイデンティティを「可愛さ」で定義しているから、他のかわいい女が出てきてしまったら自分が彼女である絶対性が揺らいでしまう。だから焦るし、すぐ嫉妬してしまう…負のループ。

今回は恋愛系のエピソードで振り返ったけれど、仕事や友人関係でも同じようなことは起きうるし、私も記憶にある。

最近はどうか

では最近はどうなのかというと、可愛いとかの言葉にいちいち不安を持たず、とにかく驚くほどデーンと構えている、笑。

なぜなら、仕事のスキルとか容姿とか、さらには貸し借りみたいなものともまったく別の部分で信頼を置いてくれる人や、(性別関係なく)好きだと思ってくれる人達と出会うことができたからだ。というか、今までもそういう機会はあったのだろうけど、私がそれを気づき、受け入れられる余裕を持っていなかったとも言える。普段の生活の中で、こいつは仕事が全て失敗してボロボロになっていたとしても近くにいてやりたいと思える友人がいることによって、自分もそういう存在になり得るのかもしれないというにわかな期待が湧いてきたんだろう。

しかもタイミングを同じくして愛についてしばらく考えていた。「可愛い」という文字をみると、愛が可能とも読める。

色々読んだり考えたりした結果、「愛は、give自体に喜びを覚えることだ」みたいな結論に至ったし「その愛には条件や等価交換は必要がない」という気持ちにもなった。

きっとこれは自己肯定の話にも繋がると思う。誰かを愛するときに何か具体的な理由がないように、自分もまた何か理由がなくても愛されていいし、存在していいのだ。

おわりに

とはいえ、それでも常にバリューを発揮していないと自分の存在がゆらぐ瞬間もある。

でも本来、起業家の私が考え、時間を使うべきは事業の成長の術を考えることであって、自己肯定の術を考えることではないはずだ。だからこそ、第一にご自愛が大事だし、自分がどうであれ受け入れてもらえるような場所を見つける必要がある。そして、自分もまた、誰かのどうであれ受け入れてもらえる場所、言い方を変えれば「帰れる場所」になれたらいいなと思う。存在していることに意味なんかいらないってことなのだ。

今年も1年お疲れ様でした。

あまり年末だからって気張りすぎず、シームレスにやっていきましょう。


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ではまた来年


おしまい

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