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【感想】NHK 歴史探偵「情報戦 関ヶ原」を視聴しました

2022年12月14日(水)22:00~22:44、NHK 歴史探偵「情報戦 関ヶ原」を視聴しました。

<始まる前に>
来年始まる大河ドラマ「どうする家康」の番宣?
「どうする家康」の内容も出てくるのかな?

<NHKのあらすじ>
来年の大河ドラマ・どうする家康。
天下分け目の関ヶ原の戦いを直前に送られた500通の書状から読み解く。
一歩間違えば家康は負けていた!?戦国最大の情報戦に迫る。

■情報戦 関ケ原

■スタジオで
来年の大河ドラマ「どうする家康」、徳川家康について調査です。
佐藤所長「思いつくのが関ケ原の戦い、またやるんですか?」
今回は、情報戦です。わずか1日の合戦で勝負が決まりました。
2ヶ月前から両軍は水面下の争いをしていた、それが情報戦、筆=書状でした。

■決戦データベース
・外岡慎一郎さん(奈良大学)
総力戦、肉弾戦のイメージ強いのですが、書状をデータベース化します。
戦いまでの書状500通を集め、データベースを作りました。
戦闘の前にかなり厳しい情報戦が繰り広げられていたことが理解できます。

■石田三成挙兵(7月上旬)
石田三成が徳川家康を討つため兵を挙げたのです。
しかし、家康と戦うには兵力の差がありました。
250万石の家康に対し、三成は19万石でした。
三成が頼ったのが毛利輝元、120万石を治める大大名でした。
祖父は名将毛利元就、しかし、輝元は優柔不断な性格で通説では祭り上げられていたとされてきました。

■どうする西軍!?

ところが、データベースからは通説を覆す事実が見えてきます。
7月15日、その日のうちに広島から大坂に向かったと記されていました。
さらに、広島からわずか2日で大坂・木津に着いていました。
輝元はなぜ大坂入りを急ぐ必要があったのか?
この頃、家康は会津で上杉と戦う準備をしていました。
一刻も早く輝元は大坂に向かい三成と合流しようとしたのです。
そして2日で高速移動どうやってできたのか?

■船の速度調査
書状に「出舟」と書かれています。
宮窪町の皆さんで実験です。
「小早船」を復元し、この舟を漕いでもらい速度を測ります。
結果は、最高時速7.1km
神戸大学で検証します。
・内山雄介さん(神戸大学)
慶長5年の瀬戸内海の潮流の分布、流れを可視化すると、逆流にならないところを選んで進行していきます。
出発時刻を午前6時と仮定、向い潮が追い潮に代わり、一気に大坂に着きます。
所要時間45時間となり、2日以内で行けるということです
・光成準治さん(九州大学)
今までは担ぎ上げられてと考えられていたのですが、そうすると急ぐ必要はありません
通説とは違う、輝元のヤル気が感じられます。
なぜ積極的に関わろうとしたのか?
「輝元の壮大な野望、西国トップの座になろうという野望、中国、朝鮮、東南アジアとの貿易で巨額の富を得ようとしたと考えられます。

■スタジオで
河合先生「いろいろな大名が重要な役割を果たしています」
一番多くの書状を送ったのは誰だと思いますか?
佐藤所長「石田三成」
家康171通、三成13通
河合先生「負けると、手紙を捨てたり、負けるとどうしても残っていないのです」
「群雄割拠で敵地を通らなければいけないので、複数の家臣に別ルートで届けるとかしていました」
「フェイクニュースも含むため、あえて自分に不利なのに有利に書くとかありました」
佐藤所長「わけわからなくなってくる」

■どうする家康

7月29日
大坂から家康に驚きの訴状が届きます。
・笠谷和比古さん(国際日本文化研究センター)
「内府ちかひの条々」弾劾、糾弾する家康に対する宣戦布告状です。
当時武士の頂点に立っていたのは大坂城にいた豊臣家でした。
家康といえども家臣にすぎません。
輝元が大坂城に入ったことで、西軍は豊臣家を掌握、家康を反逆者に仕立て上げます。
窮地に陥った家康、書状170通をしたためていました。
特に、訴状を受け取った直後に集中しています。

■AIで分析
佐藤健一さん(滋賀大学)
6/1~8/26、出馬、油断、出陣の頻度が多いことがわかります。
7/26~8/26、忠節、感悦、満足、心安らか、心情に訴えかける言葉が多いようです。
支持してくれる人に対する返事で下手に出ています。
どうしても引き止めたかった大名が、福島正則です。
この時、福島は最前線の清須城にいました
家康はへりくだりながらも、福島正則に行動を促します。
しかし、石田三成も味方にしたいため、接触を試みていました。
・小和田哲男さん(静岡大学)
「恩賞をちらつかせる手紙が多いのです」
福島正則は清須城から半月も動きませんでした
「まさか寝返ったのか」(家康)

■8月19日
家康は、福島正則のもとに、使者・村越直吉を送り込みました。
我が主、出陣できぬと、挑発的な態度を取ります。
「侮辱的発言を吐いた家康に後悔させるような働きを見せてくれようとしました」
8月23日、福島4万の軍勢が、西軍の拠点岐阜城を陥落させます。
これによって大名たちは雪崩を打って家康に味方します。
そして9月1日、家康は、3万の大軍勢で江戸を出陣しました。

■スタジオで
二人の書状を見比べると性格の違いまでわかってきます。
石田三成の書状は長いのが特徴です。
思いついたことを書き散らしている印象です。
佐藤所長「感情的ですね」
徳川家康の書状は
佐藤所長「短いですね」
河合先生「感謝の念もいれてあり、わかりやすいですね」
佐藤所長「相手に感情に訴えかけるような」
一方、江戸から徳川家康が出陣してきます。
前日ギリギリまで大名たちは情報戦を繰り広げていたのです

■命運を握る密書

9月14日決戦の前日
家康軍3万が姿を表しますが関ケ原に入ることができませんでした。。
南宮山を西軍が抑えていたから、家康は入れません。
ここに陣を置いたのが吉川広家です。
吉川広家をめぐり、最後の情報戦が繰り広げられることになります。

■吉川史料館
東軍・黒田長政が吉川広家に宛てた密書です。
黒田は密書にある工夫を凝らします
紙が4本に分かれていて、元々バラバラのものを手紙を横に裂いて腰の帯に編み込んでいました。
密書にはこう記されていました
「戦いが始まってからでは東軍への寝返りは間に合わない」
吉川広家ら西軍が待ち望んでいたのは輝元の出陣です。
輝元が関ケ原に姿を現せば、一気に指揮が上がります
豊臣秀頼に対し、やる気満々だった輝元は大坂城から動こうとしませんでした。
関ケ原に集中している今こそ領土拡大のチャンス、このスキに、中国、九州に兵を送っていたのです。
・光成準治さん
「既成事実をつくるという意図を持って軍事行動に力を入れていた」
輝元を待つか、東軍に寝返るか、待っている吉川広家に、黒田長政はダメ押しの条件を出します。
「戦いに参加さえしなければ、毛利家の領地は保証する」
吉川広家は、もし現れなかったとしても、南宮山から動かなければ、領地は守られると考えました。
吉川広家は東軍と、「不戦の起請文」毛利勢は戦いに関わらないという密約を交わします。
東軍は南宮山の麓を通過、関ヶ原に入ります。

■9月15日運命の朝

東軍が関ヶ原に姿を現します。
関ケ原の戦い開戦
吉川広家の決断は戦いを大きく変えます。
長宗我部など西軍大名は戦いません。
この影響は松尾山城にも飛び火します、小早川秀秋です。
小和田哲男さん
「家康本体が無傷、勝ちそうな東軍についたというのが小早川秀秋の判断だった」
小早川秀秋の寝返りもあり、西軍は壊滅しました。
そこには大名たちの生き残りをかけた情報戦があったのです

■スタジオで
佐藤所長「情報戦がすべてという感じでしたね」
河合先生「基本的には残らない、残っていることが奇跡です」
佐藤所長「やる気満々だった輝元は結局行かなかったのはなぜ?」
河合先生「まさか一日で終わるとは思っていなかった、毛利は領地を3分の1に減らされています」
河合先生「吉川広家の約束は完全に破られました」
「吉川と約束したのは、井伊直政、本多忠勝だった。その時の悔しさが幕府を倒すことに繋がりました」
佐藤所長「来年は家康ねたをたくさんやるのかな」

ーーーおわりーーー

次回は「正月コラボスペシャル」1月1日(水)放送です。

■感想

負けた方は情報隠蔽、焚書されますので、歴史でみると情報量では不利なんですよね。
情報戦で徹底して準備していたので、家康は動いたと見ることもできます。
1日で終わったのも、結果論なんでしょうけど、あっけないというか、三成弱いというか、無理して戦った結果なんでしょうか。
総大将が大坂城に籠もっているわけですから、士気にも影響しそうです。
他の大名にしてみれば、関ケ原が一大決戦となるかどうかは、当時は分からないわけで、本当は様子見したかったんじゃないでしょうか。
だけど、家康が必死に味方につけといってくるから致し方なく味方についたということでしょう。
ところで、吉川広家への密書が残っていたのは、興味深い発見ですね。
4つに裂いて届けていたというのは、面白かったです。
飛脚のようなものは江戸時代より前からあったそうなので、色々な手段を用いて密書を届けていたことがわかります。


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