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【実況と感想】渋沢栄一 NHK大河『青天を衝け』41回「青春はつづく」

2021年12月26日(日)20時放送、NHK大河ドラマ『青天を衝け』41回「青春はつづく」を視聴しました。

ーー始まる前にーー
いよいよ渋沢栄一「晴天を衝け」も最終回です。
こちらで書いてきた実況&感想文も最後になりました。
来年スタートの「鎌倉殿の13人」もスタイルを変えて続けるつもりです。

■こんばんは徳川家康です
イヤー今日で終わりとは寂しい限りだ。もっと見ていたい。
しかし260年続いた徳川の世もしかり、何事にも終わりはある。
この物語を閉じるに当たり、ぜひ感じていただきたいことがあります。
真心を切り開いた先にいるのはあなた方だということを。是非に。

ーープロローグーー
■大正八年、第一次世界大戦が集結。
パリ講和会議で人種差別の撤廃を欧米各国に求める一方、山東半島におけるドイツの権益を要求。
日本への警戒が強まり、中国、朝鮮半島では反日運動が激しさを増しました。
栄一は、「世界は共存共栄の平和に向かって、世界人類の幸せのために力を尽くすべきときだ。よいか、戦争しろとは決して口にしてはならぬ」敬三に訴えかけました。
祖父実業界から完全に引退しますが、その気力は全く衰えることを知らない。
慶喜公の伝記が完成し、7時頃から客が続々と詰めかけます。
・北里柴三郎は、マスクが公衆衛生に一番だ、と訴えます。
毎日平均15時間は熱心に働いています。
養育院に顔を出し、子どもたちと一緒に遊びます。
たくさんの子や孫に恵まれ、最初の内孫である僕は、東京帝国大学経済学部で学びながら跡継ぎを学んで祖父を手伝っている。
栄一の著作『実業家処世訓』を手に取り中に挟まれていた篤太夫の写真を見て、お祖父様もっと知りたいと思った。

■日米融資協議会
悪化する日米関係を民のレベルで改善しようと活動を続けていた。
「日本人はアメリカに馴染もうとしない」
「安い賃金で働きアメリカ人の職を奪っている」

■首相・原敬と会談
栄一「日本はワシントンで開かれる軍縮会議への出席を渋っているのではないでしょうね」
「是非とも行くべきだ」
原「アメリカは日本に否定的だ・・・」
栄一「堂々と日本の主張をすべき」
原「移民問題はアメリカの内政問題だ、安易に口を出してはいけない」

---曲---

■大正十年(1921年)
僕(敬三)は東京帝国大学を卒業した。
「外で働きたい、横浜正金銀行で働きたいと思ってます」
栄一はどうしても敬三に跡を継いでもらいたいと思っています。
結局祖父は自分の好きなようにしろと言ってくれた。

■大隈重信邸
栄一が大隈の見舞いにやって来ました。
栄一「今度の会議が日本の分岐点になると思うと・・・」
「異国に日本の尊厳が奪われるのではないかと、攘夷に走った」
大隈「まさか、ワシントンに行く気か?」
「日本が孤立するかもしれないときに寝てられない」
「寝ていろ!82や、余生を楽しめ」
「君はどうして政治家にならんかったか?」
「決してアメリカとの戦争の道に進んではならんのでアール」

■4度目の渡米
海軍大臣・加藤友三郎、貴族院議長・徳川家達、幣原喜重郎が会議に臨みます。
政府は軍縮に前向きだ、とのコメントを発します。
栄一は、「軍備縮小に賛成いたします」と政府に反対のコメントを記者に語ろうとしますが、幣原喜重郎に妨げられます。
「なぜ移民問題が大事か、国と国の関係が人と人の関わりだからです。
根っこの人間の心の尊厳の問題なんです」
幣原「いいえ。移民問題が出れば、会議は必ず紛糾します」
幣原「日本にはあなたはまだ必要だ」
そこへ原敬首相が暗殺されたという急報が入ります。
ワシントン会議で日本は欧米の提案を受け入れ、わずかながら軍縮へと進んだ。
しかし、排日移民の問題は議題に取り上げられず、それでも祖父は諦めず、平和を訴える旅を続けた。
旅の途中で、大隈公の死を知った。83歳であった。

■大正十一年(1922年)
僕(敬三)は、岩崎弥太郎の孫・登喜子と結婚、横浜正金銀行のロンドン支店に勤務することになった
「父上(篤ニ)に家に戻ってきてもらいたい。決してあとを継ぎたくないわけではない、親子の情は永遠に切れることはない、父を許し再生の機会をお願いします。

■大正十二年九月一日(1923年)
関東大震災が発生します。
兜町の事務所が全焼しました。
篤二が現れました。
「お前も無事だったのか」篤二を抱きしめる栄一です。
使えるものは皆さんに使ってもらうのだ。
避難者の救護所を開くことになりました。
世間は物上騒然としていて、暴民が社会主義者に扇動され裕福な人を襲うという噂があるので血洗島に避難してはと進言します。
しかし栄一はその進めを断りました。

■ロンドン
敬三に電報が届きました。
みんな無事だと

■救護所
海外から見舞金、寄付金が続々と届きました。
HEINZからは缶詰が届きました。
中華民国政府からも多くの寄付金が届きました。

■カリフォルニアでは
日本人への差別待遇を国策とする排日移民法が上下両院を通過しました。
日本では戦争を仕掛けるのと同じことではないか、と国内ではアメリカ避難が激しくなります。
祖父の十年来の努力が無駄になった。

■大正十四年(1925年)
敬三に子が生まれました。
栄一は雅英と名付けました。
「日本に帰ろう」

■昭和六年(1931年)
新選組の小説を読み上げる孫たち。
「土方歳三は私の友だ。土方とともに戦った」
その夏、中国は異常な長雨で大水害となりました。
中華民国水災同情会を設立、栄一は91歳にて会長に就任しました。
自宅に放送機材を持ち込んでラジオで募金集めで話すことになりました。

■ラジオで話す栄一
中華民国の水害を救うため皆さんのお力をお借りしたいのです。
ラジオ放送を聞く民衆に篤ニもいます。
被災は1000万人の多きになると報道されています。
思い出してください、関東の震災のとき、中華民国は多くの義援金を送ってくれた。
反日運動の最中だったにも書かわわず。
今度は日本が立ち上がられなればならない。
のうのうと寝ているわけには行かない。
大丈夫だい。私の言いたいことは決して難しいことではありません。
人を思いやる心を当たり前に持っている、助け合うんです。
募金は驚くほど集まりました。
しかし、満州事変が勃発し、募金は抗議で受け取ってもらえなかった。

■最期のとき
篤二と敬三と兼子が病床で栄一を見守っています。
昭和六年11月11日永遠の眠りにつきました。

■渋沢栄一子爵追悼式
敬三が挨拶で話します。
よく食べ、よく喋る、自分勝手で、子供のようにボロボロ涙を流し、偉人というより一人の青年そのものという気がしてたのです。

回想
血洗島での出来事が映像として流れます。

祖父はもっと国を良くしたい、人を守りたいとも持って生きていたと思います。
平岡円四郎や慶喜公の話、千代の話が蘇ります。
全力を尽くしてもその成果は棒ほど願って針ほど叶うことばかりで・・・
偉人という響きはどうも祖父には似合いません。
お疲れさん、よく励んだ、と渋沢栄一を思い出してもらいたい。
渋沢栄一が皆さんへ当てた伝言を読み上げます。
長い間お世話になりました
百歳まで生きて働きたいと思っていましたが、もはや立ち上がれそうにありません。
死んだ後も、皆様の事業や健康をお守り続けますので、他人行儀にはしてくださらないよう。渋沢栄一

血洗島を訪れる敬三
若かりし栄一「今、日の本はどうなっている?」
敬三「恥ずかしくてとても言えません」
若い頃の栄一の姿に話しかけられ将来を託された敬三でした。

----おわり----

次の大河ドラマは第1回「鎌倉殿の13人」1月9日です。

■大河ドラマ紀行
91年の激動の生涯の幕を閉じた栄一、斎場から墓地に向かう沿道は4万の人に埋め尽くされました。
谷中霊園で愛する家族とともに静かに眠っています。
雅英さんは敬三に栄一のことを語っています。
栄一はすべての仕事に命がけでやっていた、とてもかなわない尊敬と愛情を持っていたのでしょう。
渋沢栄一はどんどん前進する、スケールの大きい、守備範囲の広い信じられないような活動家でした。

■感想
やはり、最期まで家族中心のストーリー展開に終始しました。
これはこれで貫き通したのは良いことですね。
不満を言えば、経済の出来事をもう少し見たかったかなあ。
栄一役の吉沢亮さんは27歳だそうで、最後まで若かった(笑)。
特殊メイクを施せば老人になれる時代ですが、若さを全面に出し演じきりました。
時代考証をされた方はかなり苦労したんではないでしょうか。
とはいえ肩肘張らず楽しく拝見することができました。
吉沢さんも語っているように、渋沢栄一が目の前に現れたら何を聞くか?
「今の日本をどう思いますか?」
確かに聞いてみたいですね。


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