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【感想と解説】NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第38回「時を継ぐ者」

2022年10月2日(日)20時放送、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第38回「時を継ぐ者」を視聴しました。

<始まる前に>
時政と牧の方による陰謀の全貌が明らかになりそうです。
そして、次回はスペシャルトーク番組のため、本編は1回おやすみです。
12月18日の48回が最終回なので、残り10回切りました。

<NHKのあらすじ>
激しさを増す北条親子による主導権争い。
北条時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)は、三浦義村(山本耕史)に命じて源実朝(柿澤勇人)を屋敷へと連れ込み、鎌倉殿の座を娘婿・平賀朝雅(山中崇)へ譲るように迫る。
対する義時(小栗旬)は、泰時(坂口健太郎)、時房(瀬戸康史)、八田知家(市原隼人)らを引き連れ、時政の屋敷を包囲。
攻め込む機会を慎重に見定めていた。
張り詰めた空気が鎌倉を覆う中、政子(小池栄子)は……

■プロローグ
実朝に起請文を強要する時政。
この経緯が分かっていない和田義盛(横田栄司)に三浦義村は俺に従えばいいと指示します。

---曲---
エバン・コール

■ナレーション(長澤まさみ)
伊豆の小豪族に過ぎなかった男。
二十五年かけて築いた地位が、今まさに崩れ去ろうとしている。
その間、わずかひと月。

■義時側の出方

時政が実朝に起請文を強要しているところへ和田義盛が押し入り、書けと迫ります。
りくは時政に、何としても起請文を書かせるように要求します。
「鎌倉殿を引き渡せば攻め込まれて終わり、生き延びるためです」(りく)
八田知家も、親だから許したら御家人を敵に回すことになる、首をはねろと義時に加勢します。

■三浦と時政

三浦義村が、「私は義時に頼まれてやってきた」と話します。
「鎌倉を離れ、京の平賀朝雅を頼って行け、実朝を引き渡して降参する」、と時政は微笑みながら話します。
りくは、頑固に京には行かないと突っぱねます。
「頭丸めて手をついて頭を下げればきっと許してくれる」(時政)
義村は義時に報告します。
その間にりくは民に変装して脱出しました。

■羽林
「武衛とは兵衛府のこと親しみを込めて呼ぶものではない。その上の位の羽林だ」

■頭を下げて命乞い
りくは政子に、時政の命を救ってほしいと頭を下げました。
全て企んだのはりくだと話します。

■義時側は
政子が義時に会いにやってきました。
「親殺しの汚名を着てもいいのですか?」(政子)
義時は、政子の助命懇願について聞く気がありませんでした。

■覚悟の時政

「頼朝様を超える鎌倉殿となられます」(時政)
「ここでお別れです」(時政)
「参りましょう、羽林」(和田義盛)
「小四郎に伝えてくれ、後は託したと、北条と鎌倉を引っ張っていくのはお前だと」(時政)
実朝が、義時側に戻りました。
父・時政を討ち取ろうとする義時に、政子や泰時はそれを必死に止めようとします。
政子は土下座して泣きながら義時に助命を懇願します。

■その頃時政は
首を斬って自害しようとする時政をすんでのところで八田知家が止めました。
実朝が千世(加藤小夏)や実衣(宮澤エマ)のいる館に帰ってきました。

■ご沙汰
泰時は裏から手を回すかもしれないと心配して話します。
妻の初(福地桃子)に何もわかっていないとたしなめられます。

■許したい実朝

実朝が頭を下げて時政を許すように懇願します。
義時は、大江広元、三善康信、二階堂と話し合い、三善康信は「伊豆に帰っていただくのが良い」
伊豆への隠居が決まりました。
時政はりくのことが心配です。
「父上、小四郎は無念にございます。ずっとそばにいてほしかった」(義時)
「もういい・・・」(時政)
外で鳴く鳥の声に「あの声、うぐいすだよ、ホーホケキョは雄、普段はチャッチャチャ」(時政)
「元久2年初代執権北条時政が鎌倉を去る。彼が戻ってくることは二度とない」(長澤まさみ)

■トウ
トウが義時に呼ばれました。

■北条家族
実衣と政子がりくのところへやってきました。
「父は変わったのです。母上といて」(実衣)
伊豆山権現で3人が籠ったことが忘れられないと思い出話で話が弾みます。
そして、りくは、お世話になりましたと最後の挨拶をして別れました。
りくは、侍女に変装したトウに狙われます。
義村が現れ、トウが刺客であることを見抜き、格闘によってトウは逃走しました。

■りくと義時
りくは義時が刺客を差し向け自分を殺そうとしただろうと、話します。
執権にならない義時に「意気地がないのねこの親子は。あなたはそこに立つべきお人」(りく)
「父上と母上の思い、私が引き継ぎます」(義時)

■平賀朝雅

京に入る御家人に命じ平賀朝雅を殺す。
罪状は、範頼を毒殺し、実朝になりかわり鎌倉の座を狙い、畠山重保に罪をなすりつけた。
それがなければ畠山が滅亡することもなく、父が鎌倉を去ることもなかった。

■京都では

鎌倉殿になろうとおもったことなど一度もないと言いながら平賀朝雅が討伐されました。
慈円は念仏を唱えながら、後鳥羽上皇
「鎌倉殿にこれ以上勝手な真似をさせてはなりません」(藤原兼子)
後鳥羽上皇は「実朝の考えとは思えん」誰が企んだかと問うと、
「北条義時」と慈円は答えました。
執権時政に代わり鎌倉の政を取り仕切ることになりました。
義村は「義時の他に御家人の筆頭になれるものはいない」
「義時・・・、調子にのりおって、許さん」(上皇)

----つづく----

次回は第39回「穏やかな一日」10月16日放送です。
※ 10月9日はスペシャルトーク番組です。
「鎌倉殿の13人」応援感謝!ウラ話トークSP ~そしてクライマックスへ~

■感想

時政はかろうじて助かりました。
しかし、これで時政はほぼ終了、牧の方ともども。
流石に実の父を殺すことはないんじゃないかなあと思います。
実直な義時でもそれはない。
だけど、牧の方(りく)を殺めようというのはありそうですね。
義時や政子らにとっては血がつながっておらず、後妻ですから。
まあ、『吾妻鏡』は北条の記録書ですから、義時を美化しているのは確かでしょうし、北条一家を悪く書けないのも確か。
もっとドロドロとした陰謀があったのかもしれません。

■勝手に解説

北条時政、義時により、鎌倉時代に興隆した北条氏ですが、その出自は明らかではありません。
桓武平氏の平直方を始祖と名乗っていたことは確かなようですが、正統の系図は残っておらず、その出は名門とか大勢力と呼べるものではなかったというのが通説です。
ドラマの中でも取り上げられたように、時政は願成就院というお寺を建てています。
現在は韮山と呼ばれている所で、守山という小山の麓が北条の村でした。
その北側には、頼朝の館があったそうです。
他の有力豪族の領地と比べても”田舎”であり、勢力は劣っていたことが分かります。
運慶の作と伝わる国宝・阿弥陀如来坐像などが安置されています。
時政は、10年後の建保三年(1215年)78歳で亡くなりました。

時政のお墓 筆者撮影



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