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族長の時代 5. 〜族長としての村上春樹〜

世界50カ国以上で翻訳されて、読者の青春の頃から老年に至るまで、魅了し続ける作品〜文芸とはいったい何なのだろうか。かく言う私もまた『風の歌を聴け』以来、秘匿未読している『街とその不確かな壁』までその不確かな魅惑は色褪せることがない。私の族長の定義からすれば、村上春樹こそは京都伏見が生んだ日本民族の世界的版図を誇る空前絶後の偉大なる族長である。
彼の2009年、イスラエル賞受賞時のかの“壁と卵”のスピーチから〜

『巧みな嘘をつくことによって-つまり、真実のように見える虚構をでっち上げることによって−小説家は真実を新しい場所に引き出し、それに新しい光を当てることができるから』

前にも『騎士団長殺し』感想文に書いたが、彼の文体と物語は地上の材料からできていないのだと思う。一応どこにでもある場所でどこにでもある物語が広がっていくのだが、その素材のすべてを村上春樹は、無意識世界から掘り出し持ち帰るので、人間〜読者を不思議な微光で包み込んでしまうので、わけもなく読者はその無意識世界の虜囚にされてしまうのだ。たとえ数十年前に読んだ『風の歌を聴け』の冒頭も私の胸の中でまだ微光を発し静かにうなり続けているのだ。
私は彼を深層意識界に深く深く潜り生と死の境を軽々と越えて、人間〜読者の霊的成長の物語を地上に持ち帰るシャーマンに他ならないと結論する。霊的成長というよりも、村上春樹の微光を帯びた物語は読者自身の深層意識にも壁抜けのように入り込んでゆき、読者自身を物語化してしまうから、その痕跡は生涯、記憶のある限り、読者の永遠化された青春ヘの郷愁の酒であり続ける。
さらに村上春樹がよく物語世界に接続して遥かなる時代の潮流を私たちの意識の運河に流し込んでくる手法の背後には、技法ではなく、セピア色の時代霊やモノクロの民族魂が覗いているので、私たちの中の民族霊〜時代魂がひどく疼くのだ。
要するに村上春樹の力とはシャーマンのそれであり、伏見稲荷の地霊をも駆使する、大国主命的の背負う大きな袋のような、壺中の宇宙に私たちを惹き込んでしまう霊性の類いとごまかすしかない。

なんだか村上春樹がチベットの僧侶に見えてこないか?

そして有名なあの部分、

『高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ。』

この“壁”は何の暗喩だろうか。ユダヤ民族自らが聖書やタルムードを文字通り魂の糧として数千年に渡って築いた、自分達以外を“亜人間サブヒューマン”と見下した選民意識の壁か。そして必然的に閉じ込められたゲットーの壁か。また何の罪もないパレスチナの人々を閉じ込めた壁か。ぶつけられる卵とはパレスチナの人々であると同時にユダヤ民族そのものであるかもしれない。今や誰も逃れようのないグローバルな壁と携帯の鎖に監視誘導されるゴイム牧場を築いた最優秀なユダヤ1400万人ネットワークに対して、世界中の誰もなし得なかった宣戦布告を村上春樹はやってしまったのだ。尋常な神経ではとてもなし得ない、静かな物語の剣を、村上春樹は傲慢なる世界支配層に突きつけた。ノーベル文学賞などといった過去の異物によって嫌がらせを延々とされているのを、彼の世界中の読者達は、苦々しく思っていることにも気づかないのは、救いようのない傲慢さが彼らの中に毒のように沈殿しているということだろう。

このまま時が穏便に過ぎるならば、今年の初冬あたりには、秘匿中の『街とその不確かな壁』を読み始められるのだが。


■画像はヤフー、村上春樹画像より。

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