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クオンタム・スパイダー読書 『法力とは何か~「今空海」という衝撃』老松克博著を読む11.

『法力とは何か』
“第二章  X阿闍梨のこと  青年期まで
高野山にて
〜〜
「やってみると、実際にそのとおりになりますから」と和尚は力強く言いきる。~ここで、前節の四度化行の際の興味深いエピソードを一つ付け加えておこう。この行の期間中は、毎朝、水をかぶったり、お供えの水を汲んだりするために井戸に行く。初日のことである。朝、和尚が井戸のところに行くと、釣瓶が壊れていた。和尚は、やむなく、少し離れた別の井戸までバケツを持って水を汲みにいくことにした。
朝靄のなか、草を踏みながら歩いていくと、前方に何やら黒い影がある。目を凝らしてみると、ふつうの倍くらいの大きさはあろうかと思われる牛だった。あたかも和尚を通せんぼするかのように行く手を遮っている。追い払おうとしても、どこ吹く風で、動こうとしない。しかも、飼われている牛ならつけているはずの鼻ぐり(牛をつないだり制御したりするための鼻輪)がついていないのがわかった。
和尚はぎょっとしたが、逃げ出すわけにいかない。一度はじめた行を途中で放棄することはけっして許されないからである。行はもとより命懸けなのだ。和尚は意を決し、目をつぶって、バケツをガンガン叩きながら牛のほうへ進んでいった。いつ来るか、いつ来るかと思って前進するが、襲ってこない。井戸端まで至って、作法どおりに水を汲み、懸命に拝んだ。目をあけてみると、もう牛はいなかった。~~
高野山に戻ってから、この経験を、印度哲学の権威である学長に話したところ、聖牛との出会いをおおいに褒められた。~~
その後も、学長の胸もとに溢れ出る不思議な光を見て、小さな袋に奇しき宝珠が入っているのを言い当てたり、突然、見ず知らずの元海軍大将の訪問を受けたり、と学生時代の和尚は話題に事欠かなかった。~~
〜卒業論文には、法力を弓矢になぞらえて「当たってから射つ」と書いた。~~
和尚が主張したかったことは、要するに、時間的な前後関係を逆転させて結果を先に見通す、空間的な隔たりをものともせず光が届くよりも速く願いを成就させる、といった意味である。”

なぜ大きな牛だったのか?高野山の地主神である狩場明神様ゆかりなのか丹生都比売神社ゆかりなのか、よくわからない。ただ仏教と牛の関係で検索すると、ズバリ牛は仏教開祖お釈迦様ゆかりだ。お釈迦様は牛王とも呼ばれるらしい。お釈迦様のお名前ゴータマ・シッダールタのゴータマ姓は“最上の牛”の意味だという。阿闍梨が遭遇したのは明らかに実際の牛ではなく、開山以来一千年の仏教聖地の力そのものが、前世からの仏教修行者に感応して現れた、祝福と激励の予兆だったのではと思われる。


呼吸法や瞑想、真言読誦などで初心であっても佳境、ゾーンに入れば、時空感覚は無くなる。その自動意識状態で、法の次第をなぞる時、人間が放つ意識の量子が作法で集中強化され、さらに法そのものに宿る仏教守護神とも融合したときには、時空間を越える法験が現れる。つまり神通力を現すということになる。このような主に深層意識を法に使う原理の他にもう一つの原理がある。呼吸法、ヨーガ、真言読誦などによって、チャクラ器官に内気を集め巡らせて量子振動を極限まで高め深め、超次元の量子を対象に同期、量子もつれを発生させる法。その究極がクンダリーニヨーガと言われる。外の対象に向かえば法力となり、自分の内なる宇宙に向かえば成仏力となる。さらにこの凄まじい量子振動で色即是空を観じるので、執着心によるパワーでなく“空”性のパワーとなり、因縁因果を超えて、反作用もなく超絶的円満に法が目的を達する。究極では脳を自由自在につくりかえる。


■画像はヤフー高野山画像、好奇心画像より。

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