僕はそれを旅先で見た。

安倍氏が殺された事件について、のちに読み返そうと思って、hagex氏が殺された時のことを思い出している。
先に言っておくとhagex氏について知っていることはそんなに多くない。氏が刺される直前のイベントを開催した人とは軽い付き合いがあった。
その人は、ダイエットの本を書こうとしていて、挿絵を頼まれたので何枚かカットを送った。その後、本は出ずにその人が起こした児童買春でとんでもないことになってその人とはもう連絡が取れない。

話が逸れた。

当時の僕がhagex氏のことを書いておこうと思ったのは、その死が衝撃的だったというよりは、その人に向けた追悼文(正確には故人に向けたものではなくその人のことを思い出して書いた文)に、随分と心動かされたからだった。

安倍氏の暗殺を取り巻く情報については、正直なところ今のところ心を動かすものはなにもない。犯人の生い立ちに興味はないし、事件が世界に与える影響についても興味がない。

安倍氏の政治思想や、世界を「このように変えたい」という思いがあったとして、自身の死によってそれが為されたとしたら嬉しいと思うだろうかと考えると、そんなわけないだろ、と思う。
逆に、思っていたものと違う方向に世界が変わる契機になったとしたら無念が増すかといったら、それだってそんなわけないだろ、である。死人はものを考えない。

ただ、いずれにせよ「痛かったろうにね」というものだけは変わらない。無念さに高低はない。殺されるものはいついかなる場合も無念なのだと思う。

僕は遺されたひとびとが何をいうのも構わないとは思っている。平時より、意気地のないことを言うかどうかで判断するだけだ。自分のものでない意見に飲み込まれて、があがあ借り物を振り回している人を見ても、なんでえ野暮いな、と思うだけである。
逆に、安倍氏の暗殺についてショックを感じるひとの個人としての肉体から出力された意見や感想については積極的に聴きたいとさえ思う。

銃撃直後の「はあ?」「なんだなんだ」という雑音の群れを抜けて、ちょこちょこそうしたものを目にする機会が増えてきた。
もちろん、同時に猪口才な、個人の死を「政治」というものを語るアクセント程度に使う文章にも触れることが増えてきたので、相対的にはストレスフルではある。

僕は政治的なセンスがない。政治とは常に「次善の策」だろ、という立場に立っている。より良く、と政治家たちは言うが、正確には「より悪くなく」だろ、という立場だ。
だから、安倍氏についても、より悪くない仕組みを作ろうとして旗を振っていたひと、という解釈だ。個人があらゆる全ての仕組みを立案、実行していた訳ではない。極論、差し出される二案のうち、どちらが「より悪くない」かを判断するとか、どちらも却下するとか、そういう判断をする仕事だろ、という程度の解像度である。

勿論、政治責任はあるだろうが、安倍氏の首相時代に行われたことは、安倍氏の「名前」と「概念」が責任を取るべきで、その肉体や家族が苛まれることには何の意味もないと感じている。
これは、逆に言えばもし何某かの罪があったとして、激しい拷問の末に殺してもそれは消えないのだから、拷問してはいけない(意味はない)だろというシンプルな話なのだ。死んだものにはもう罪がないとも言っていない。

政治家の罪は、名前や概念が贖わなければならない。ただ、政治家の死は、名前や概念のものである前にその肉体のものだろ、ということを強く思う。
その死が彼のものを超えるほど「特別」なものだというなら、じゃあ君たちは毎年彼の誕生日を祝っていたのかい、と思う。彼が生まれたことを祝ったり呪ったりしていないのだったら、その愛や憎は、やはり概念や名前に対してのものだったんだよ、と思う。

シンプルに思うのは、撃たれた時、どんな人であれ「人間」である以上はこれでよかったとは思わないだろうなあということだ。僕は、彼を人間として扱い、人間が死んだことに対して思うことを拾い留めてゆきたいと思う。

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