パートタイムの奴隷のこと(再録)

パートタイムの奴隷、について考えている。

端折っていうと、古代ギリシャの頃から「奴隷」がいる状況でしか知的/文化活動は進歩して来なかったんじゃないか、という疑問についてだ。

これ、いい悪いは置いといて真実だと僕は思っている。やるべきことを誰かにまとめてやってもらって、時間にあまりを作る。逆にいうと、生活に必要な諸事から解放されると、普通の人は何かを考えるのではないかという話。

文化の発展のために、積極的に奴隷を増やそう、というのが短絡的な最適解なのだけど、奴隷層と知識層を分けるのが何なのか、というのがどうもはっきりしない。
そこで人はパートタイムで奴隷を分担交代するようになったのではないか、というのが、今僕が考えていることだ。
そしてパートタイムの奴隷は、「奴隷が人間である必要」を脱ぎ捨て、徐々にその役割を人間以外にシフトしている。

雑事、労力を取られるリソースを集約しあって節約したがるというのは種としての本能のようなものではないかと思っている。
文化的な活動をしようと思えば思うほど、本能として奴隷を欲する。それに抗うのはとても魅力的な生き方ではあるが、現在だって、抗い切れているのかというと微妙だろ、と僕は思う。

僕が言いたいのは、労働者は奴隷だ、ということではない。労働の対価を、金でしか見ないことが人を「奴隷」として扱うということでないかと思っているのだ。
金という尺度しか持たないと、より安い労働力を求めてしまう。安く買い叩くことが美徳になってしまう。究極形が、無賃での労働力、奴隷だ。そこに近づくべくデザインされるものを、すべて僕は人を奴隷に貶めようとする行為と定義する。

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