考えるのをサボるひとたちのこと(再録)

揚げ足をとることだけが得意な人間を重用してしまうメカニズムについて考えている。いわゆる、現状分析をさせた際に「ここがダメですねえ!」から始めるクソコンサルみたいなやつ。あるいは、自身への指摘に対して「指摘のここがおかしい」と、重箱の隅突きから話し始める自称論客みたいなやつ。

それらは機械と同じで、入力された条件を基にそれが通るか通らないかを判別する。論理式的にグレーなものは、判断できないから関係性によって合否判定を行う。敵の意見は黒、味方ないし中立なら白。シンプルな判断基準なので彼は迷うことがない。
機械と唯一違うのは、サービスとして、論理判定の根拠を自動生成のそれらしい文章の形にして吐き出すことくらい。

そんなbotであっても、一部の人は「素敵な判定機械だ」として気に入ってしまう。自動生成のワードサラダをこの上ないエビデンスだって、深く頷いて椅子に座り直す。

ほとんどの人類種は、円周率が3.05より大きいことを証明するのが好きではない。円周率は3.14でいいじゃないか。そう決まっていることを改めて考えることに意味があるかな?根拠も何も、みんなそう言ってるし、それで不都合はないじゃないか。

botのワードサラダには時に「みなさんご周知と思いますが」「よもやこんな簡単なことを間違える方がいるとは思えませんが」「初歩的なことですが」などの詐欺師の詭弁ライブラリから拾った万能呪文を挿入する。
自称「頭のいい人」はそれを聞き流すが、その毒は深くに根を張る。自称「頭のいい人」は悔しいから簡単なことなら、と自分で調べない。深層心理の奥に、その詭弁と嘘は根を張る。
考えるのがめんどくさい人や、あるいは、自身の限界を知って「すべての分野には精通できない」と知った人もまた、深い専門性をアウトソーシングする傾向にある。

「そういうもんだろ」という意識は人を間違った方向に導く。それはただのbotなのに、いつのまにかご意見番、見解顧問みたいな位置に座っている。

不思議なことよの、と僕のような暇人は思う。自分で考えればいいのに、なんで考えるのをやめるんだろう。

多分答えは、やっぱり「めんどくさい」のだ。
能力が圧倒的に足りなくて「考えるパート」をアウトソーシングしないではいられない人もいるし、逆に、考える力はあってもそこまでリソースを割きたくない人もいる。正否判断なんて、基本的には機械がやっても同じなんだからbotにやらせとけ、って人もいる。

いずれにせよ、正否判断だけは無料で提供しますよ、というクソコンサルに飛びつく人は多い。無料診断、という言葉に人は絶望的に弱い。
その診断が「正しい診断だったかどうか」をどうやって判断するのだろう。毛生え薬を売りたい人は、将来ハゲ始めるであろう年代をレポートにして出すだろう。レポートの冒頭にある「なにもしなければ、いつか必ずハゲます。進行を遅らせるのが大事です」を疑わない。

でも、本当にそうかな?

そんな無料サービスを上手く使っているつもりが、逆に使われている立場になっているのはまるで昆虫界の共生の縮図みたいで面白いが、実害が降りかかってくるとそう笑ってもいられないんである。
クソコンサルたちは、意識的にカモを選定しているか、単に無能であるかにかかわらず、常識的にアプローチするであろう層の、これまた有能無能の極端値付近の人々と相性が良すぎる。

これはつまり、彼らのダメさ加減に気付けるのは中間値か、突出した層しかないことを示している。

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