「才能に翼を」?(2019-08収録

(筆者注釈:これは、MENSAの中に「才能に翼を!」というスローガンでとにかくおれたちは常人と違うんだ、というサークルが出来たときに寄せた文章です。本当にわたしは性格が悪い)

 わたくしは意地が悪いのか単に空気を読まないのか、たぶん諸氏が「そこじゃないよ」というところを重視してしまう。冗談についてもたぶん笑いどころがおかしい。自分の行動理念がよくわからない。
 つまり、何が言いたいかっていうと、今から全く見たことも会ったこともない人へのメッセージを、エアリプすると公言して全世界公開でエアリプすんぞってこと。これは正気なのか。ともあれ。

 希死念慮、という言葉が嫌いである。嫌いというか、定義がよくわからないところがある。逆に言えば、これがない人って居んのか、と思っているのと、これまで、人に向けてこれを口に出す人にろくな人が居なかったというのが非常にひっかかっている。
 僕は、その新しい試みを実はかなり評価している。僕はたぶんその輪に入れない/入らないだろうとは思うけど、某会に入って何度か夢見た輪が形になっているのは素直に賞賛すべきだし、何かできることがあって、頼まれれば手伝いたいと思うレベルで賛同している。
 けど、希死念慮の話だけはいただけない。才についての素晴らしい試みに無駄な泥がつく、と感じている。

 才は、決して人間性の上には立たない。
 天狗として、後足社の首魁としてはっきり思う。ある一面、才のように見えるものは、人間性の上に寄り添うかもしれないが、それを才として扱うと絶対的に腐る。才は決して受肉しない。
僕は今でこそ受肉し、そこそこウジウジしたりプンスカしたりしているが、馴れ合うのは、僕の才とは全く関係ない、単なる肉体側の都合である。

 僕は僕という人間をひとつの芸術として捉えているが、やはりそこには孤独であるという一点だけが屹立する。好意的だったり憎しみに満ちたりした他者からの評価や評判をイジェクトしたり、あたたかく差し伸べられる手を振り払ったり、心からの配慮に涼しい顔でノーサンキューを告げることを、とても重要視している。ある一面、人間でなくなっていることだけが、ひとを才とする。
 僕の孤独や煩悶は僕だけのもので、僕が独占し、他人にはその残滓以外のものは与えるつもりがない。芸術とはそうしたものの上にのみ立つと思う。双方向性のないものこそが才だ。
だからこそ、人間として、肉持つ生きものとしての姿は才とは切り離しておくべきだと思う。はっきりと、僕はそれを残念だと思って眺めている。

 才についてのトピックを建てるなら、泣いたり笑ったりする生身の人間をクローズアップすべきではないと感じている。つらいならつらいって言うべきだし、言っていいと思うけど、才についての話は横に並べるべきではなかったと思う。そのふたつは全然別のものなのだ。
 公人は泣いたり笑ったりするなという意味ではない。ただ、分けるべきだという話なのだ。分けておくべきダンスなのだ。つらいのはわかる。なんか、背景全然わかんないけど、なんかつらそう。希死念慮なんて品のない語を引き合いに出して、おれ死ぬかもって言わなきゃいけない状態なのは同情するし、それについて語ることがダメだとは思わない。でも、だけど。

『舞台に上がっている間だけは、わたしたちは、人間ではないのだ』

舞台の上で役者が、己の進退を他人なんかに問うてはいけないのだと思う。

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 相変わらず見たことも会ったこともない、別の人へのエアリプ続けんぞ!!
 もう確信したけど、むっかしい語を使いたがるだけの、敬語が使えない類のひとびとが群れ集い始めた。ローカルルールを押し付けたり、ローカル解釈をおしつけたり、まあ独善的だこと。自分がいちばん偉くてアタマがいいと思っていると、ほんと類型的になるなあ。
ほんっと、類型的なものを皆殺しにしないと知恵だの知能だの知性だのの出番は永遠に来ない。

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しかし、例の輪についてはかわいそうなことよ。

完全にビッタビタに汚されてしまった。あんなに手形たくさんつけなくてもいいじゃろ。
おれが発案者だぞ、という不自由さが、自由であるべきものを規定しすぎるという。例えるならば、無自覚で過干渉の親みたいなやつや。
「ワタシその子の親なんざんすからね!」という喚き声は、子の友人や、子の新しい支持者たちを遠ざける。
子はうなだれて座るしかない。

かわいそう、かわいそう。本当に、かわいそうに。

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