恋について(2017年9月採取)
恋について、どう記述するものかなあと思っていたのだけどようやく悪くない書き方に辿り着いたので覚書。
確かに身近なところでパートナーを探し、コミュニティを荒らしまわるのは野暮というもの。魚を探すのに水辺に分け入るようなもの。
たぶん、身近に目を向けてみては?というアドバイスが本当に示すものは、身近なコミュニティで恋に落ちたとき、戸惑わない心構えをしておけということなのだ。
人は、己の気持ちのきざしに鈍い。生きるほど鈍くなる。誤解して痛い思いをしたりするほど、それは予兆ではなく誤反応だということにされてしまう。コミュニティの居心地と個人的な予感を天秤にかけてしまう。
まだ始まっていない物語は、主人公の手によって、既に始まっているコミュニティと比べられ、そっと陰にしまわれてしまう。身近に目を向けてごらん、というのは決してバタバタ動けということではなく、不意に恋と出会ったとき、それが恋であるときちんと認めてあげる「準備」をしておくということなのだ。
僕はすべての物語の味方をする。新しい物語を始めるため、開かれた身体を持つ人を応援する。
少し話は変わるけど、己の心以外で恋だと思わされているのは殆どがまやかしじゃないかと思います。そういうまやかしがヘテロの世界には多く、恋でないものを恋と呼ぶことも多く、そして同性愛者の中には恋になる前に消えていく、消されていくものが多いという話ではないかと思います。
そして、情報の氾濫するこの世界で不幸なのは、恋をすることと、行動を起こすことがセットで扱われているところ。
恋に落ちたからといって、叶わぬ恋だからといって、叶える気のない恋だからって、何が悪いものか。既婚者だって、骨壷だって恋していいのだ。
そんなわたくしは、恋をしてるんです、と聞かされるとこう答えます。
「そうですか」
その恋はたのしい恋ですか、苦しい恋ですか。これがおれのスタンド。名付けて、ザ・恋愛小説家。
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