「in other words」

最近疲れていると思ってはいたが、ついに本が読めなくなった。
これについては薄々覚悟していたことではあったが、これまで365日、朝昼晩ずっと何かを読んでいた活字中毒のわたしにとってはなかなかにショックな出来事だった。
何の足しにもならないとはわかっているのだが眼の上にアイスノンを載せ、わたしは夫に声をかける。別に脚色するようなことでもない。

「ついに、本が読めなくなったよ」

返事をする前に夫はテレビのスイッチを切った。野球の中継か何か、わあわあ言っている音がプツン、と消えてこちらに向きなおる音がする。

「精神的なもの?」
「そんなわけあるか。物理的なものだよ。でも、そうか。精神というのも元々は脳内物質に左右されるんだから、どんな身体の変化も、それはそれで精神的なものと言えなくもないんだねえ」
「どれ、見せて」

夫の細い手がアイスノンをどけて、わたしの閉じた瞼をなぞる。

「それは瞼だよ。わたしは瞼で世界を見ていたわけではない」
「そんなの分かってるよ。でも、熱があるわけではなさそうだね」
「眼球があっつくなることなんてあるの」
「目から光線を出せるということは、基本的に発熱するはずだけど」
「誰がサイクロップスか」

夫の指が瞼を滑り、わたしの頬に触れる。わたしは新しい冗談を言おうとして、やめる。この人が今、何を考えているのか。それを推理して気遣う程度の知能は備わっている。

「きみは働きすぎなんだよ」
「ごめん」
「謝って済むなら在日米軍は要らないんだよ」
「在日米軍は要るだろ」
「政治的な話はやめよう」
「……明日さあ」

わたしは目をつぶって手を伸ばし、中空で夫の頬を探した。
都合よく、そのつるんとした頬に指が当たる。指、手のひら、そして左手も伸ばして添えて、夫の顔を両手で挟む。わたしが探し当てたのではなく、この人が顔を差し出したのだ。アイスノンがもう一度瞼の上に載せられた。どんな顔をするのか、ひねったりつねったりしてやろうかと少しだけ思ったが、どうせ見られるわけでもない。わたしはそのまま夫の顔を放した。

「さすがに明日、休み取るから散歩行こうよ。久しぶりにさ」

わたしはアイスノンの下、目を閉じたまま呟いた。

***

初夏の道は気持ちの良い陽気だ。

夫が玄関を開けると、強い光がさした。この時間、太陽は扉の正面にある。肌を刺す日差しは、爽やかというには若干暴力的な気がしたが数えてみれば一週間ぶりの外出だ。むしろそれは心地いい刺激だった。見上げ、わたしは手を引かれて立ち上がる。夫が真剣な声で、昨日amazonで車いす頼んだ、とか言い出すのでひとしきり笑った。

でもそれじゃ届くの明後日じゃん。そうだよ。えっ、待って、マジで買ったの? いや実はまだ買ってない、実はちょっと高かったから一応相談しようと思って。へえ、値段までは見たのね。うん、見た。幾らだったの? それが大体、2万円もしないんだ。へえ、意外と安い。じゃあ買っちゃう? ううん、要らない、持たない、持ち込ませない。なんだ、いったい何の非核三原則だよ。

いつものような会話。車いすを押してもらってゆくのも楽しそうではあったが、近所の目というものもある。そんなことより手をつないで歩こうぜ、とわたしがいうと彼は少し間を置いてから、そうだね、とわたしを起こした手をほどき、つなぎなおした。
わたしの左手が上になるつなぎ方。右手ではだめで、いつも左手だった。右利きの人に手を引かれるには普通逆なのだろうけれど、なぜだかこのつなぎ方でないと気持ち悪いのだ。一度この話をしてからずっと、夫は手をつなぐとき、わたしの左手を必ず上にする。

「いいお天気ですねえ、おじいさん」

あまりの太陽光の強さにわたしが目をつぶったままいうと、やっぱり彼はそうだね、と答える。天気の話は、わたしは今、機嫌がいいですよ、という印だ。お互いにそうしてきた儀礼上のプロトコル、符牒、暗号。雨が降っていても、昼でも夜でも、わたしたちは二人で出かけるときにはいつもそうやって始めた。
「なんだかおなかがすきませんかねえ」は、ご飯を食べた直後だとしても、もう帰ろうぜの合図。「そろそろお茶の時間」というのは、相手をねぎらう印。なんだか食べたり飲んだりばかりだが、他にも合図はたくさんある。ひとつひとつに由来や、思い出がある。わたしはそれらの元になったエピソードを覚えている。夫も、たぶんそれらを覚えている。

ポーチの階段は三段。ドアを開けて、おおまたで一歩。いち、に、さん歩めで道路に降りる。昨日の雨が乾いてゆく湿気の混じったアスファルトの、すこしへんなにおい。

結局、わたしたちは仲がいいのだろうが、外から見ればへんてこな夫婦だ。子供もない。年齢的に、今から作ろうと思えば作れるだろうが、親になるのに向いていないのはどちらもだった。いまさらそれが、もっと悪くなることはあっても、きっと、良くなることはない。
お互い、家でできる仕事をずっとしている。でも、働く場所の自由があるということは報酬が少なかったり、とにかく量をこなさなければならなかったり、気が向いたときにたまに仕事をすれば食べていけるような、そんな都合のいいことではなかった。それは固定費を二人で折半できる環境にあっても同じことだった。

同じ家、同じ空間に暮らしているのに、まるで空気と過ごすように10年暮らしてしまった。中古の木造住宅を賃貸で借りて6年。オーナーから買い取って4年。仕事をするとき、わたしは3階で。夫は1階で。それぞれのフロアにトイレがあるから、平日はご飯の時くらいしか顔を合わせない。仕事が忙しい時期がなんだか重ならない。休みが合うときは一週間単位で一緒になるが、会わないときは一日たりとても合わない。
ただ、忙しい時期でも夜だけはさすがに仕事に追われたりはしない。時折、北側の窓のそばで一緒に珈琲を飲んだ。インスタントだ。気分を出したいときは豆を挽いたものを使ってみるが、味にそこまでの違いは分からなかった。窓からは遠く、首都高速道路の明かりがぼんやり見えた。

食べ物にも飲み物にもこだわりがない。わたしたちは特にお金のかかる娯楽も必要とせず、ただ、ただ生きていた。
わたしには、ちょっとした金が貯まってはいるが、使おうと思えば一年できっと使ってしまえる額ではある。老後のたくわえというほどしっかりした金額ではない。夫の口座にはどうだろう。お金を使うところがないのはお互い分かっていたが、それぞれが稼いでいる額については無頓着だった。必要な分だけは稼げているから、それで十分だった。余計なことを考えなくてもいい。何も考えなくてもい。いいはずだった。

「今日はさ、土手の方に行ってみようよ」

わたしは手をつないだまま、すん、と鼻を鳴らした。緑のにおい。角の家の庭木だろう。しばらく前まで気にも留めなかったが、それは鮮やかに香った。剪定したばかりなのかもしれない。
夫はわたしの手を握り直し、ぐっと引っ張った。こうしてみると、きちんと男の人らしく力が強い。日差しは相変わらず強く、わたしの半身をじりじりと灼いた。わたしと夫は手をつないで自宅の前の通りを東に向かう。大通りに出るまでだいたい40歩。この間数えた通り、ほとんど間違いはない。曲がる歩数も数えた通り。そこから南に向けて、あとは二人でずんずんと歩いてゆく。
まだ昼前だから太陽を遮るものはなく、サンダルをはいた足の甲までが日に焼けるようだ。鼻や頬にも、もちろん太陽の威力をダイレクトに感じる。すごい。初夏すごい。

結婚を望んだのはわたしの方だった。彼の名字がかっこいい。それだけの理由だ。なのに、仕事の上では通りがいいので旧姓をずっと使っていた。奇妙な話である。だったら、結婚しなければいいのに。そんなことを何人かから言われた。
子供も作らない、海外旅行をするわけでもない、なんで結婚しようと思ったの、と一度真剣なトーンで言われたことがある。さあ、なんででしょうねえ、とその場で真剣に考えこんでしまったのが悪かったのか、義実家からは出禁になってしまった。

夫は元から、あまり義実家と折り合いが良くなかったらしい。
だから別にいいよと言ってはくれたが、わたしが関わることで「良好ではないが、積極的に破棄するほどではない関係」が悪化するのは悲しかった。義母は自分の息子の素晴らしいところをすぐに答えられないわたしに対して腹を立てたのだろう。
実際のわたしは彼の魅力的な部分が思いつかなかったのではなく、長所のうち、聞こえのいいものを探すのに手間取っただけなので、義母の怒りは筋違いではある。ただ、義母は夫を愛するがゆえに怒った。だからその意味では正当である。そしてわたしは弁解しようと思えばできたのに、不義理にもあえてそのままししておいた。つまり差し引きでは、正当性は彼女にあると言ってもいいだろうと思う。

さすがに、見た目が弱そうなのにいざ喧嘩すると意外と強いところに惚れた、とは言えなかった。わたしが酒場で酔客にぽこんと殴られたとき、彼はまるで流れるように相手のおっさんの肘関節を極めた。脇固め、という関節技だ。止めなかったら多分折っていたと思う。もちろん暴力はいけないことだが、肘を極めた後、わたしと目が合った時の「どうしよう」という表情は面白かった。腕を解いた後、ダメですよ、危ない人かと思ったじゃないですか、と、おっさんに逆ギレしていた姿も覚えている。おっさんはそんな夫に気圧されたのか、おお、すまん、と謝ってきてその場は収まった。おっさんじゃなくておまえが危ない人だよ、というのは後から思った。

夫が落ち込んだ時のリアクションがかわいい、というのも言えない。しくじった時の彼は両手で顔を覆い、まるで決めて当然のシュートを外したサッカー選手のような姿勢を取る。落ち込みの度合いによっては、彼は倒れて顔を覆う。
わたしは、その時の彼の姿を思い出しながら声をかける。

「昨日、雨が降ったね」
「分かるの?」
「分かるねえ。この、水のにおい。ちょっと、くさい。そして、あきらかに川が近くにあるにおい」
「おれ、分からないな」
「まあスズくんは、梅ガムのにおいと梅の花のにおいの区別がつかないような人だからな」

今度は夫が、ふん、と鼻を鳴らした。
ちなみに、義実家出禁の件は最終的に「わたしと離婚すれば許して差し上げる」という義母の勧告があったそうで、夫は珍しくたいへん怒った様子でわたしにそれを報告してきた。彼は、こっちから願い下げだし、あの人が謝ってきても口きかなくていいからね、とプリプリしていたが、わたしは逆に気楽だった。わたしと離婚さえすれば、彼は育った家庭に帰れるのだ。これを人生の保険と言わずしてなんと言おうか。
夫は、放っておいても一人で生きていける人ではある。愛嬌もあるし、顔だって悪くない。そのあたりについて心配するものではなかったが、戻る家庭がここ以外にも許されるだろうと想像するのは、決して悪いものではなかった。

「昔さ」

わたしは手を引かれながら、ついつい習慣で太陽に手をかざす。

「昔、同じようにまぶしくてわたしが目が開けられなくなった時、こうやって手を引いてもらって歩いたっけね」
「そうだね」
「向かいから来る人を、FPSのバディみたいにアナウンスしてさ」
「『ランナー2名、ランデブーまであと、20,10m…ステンバーイ、ステンバーイ』」
「『…おやすみ』」

低く抑えた声が揃う。わたしたちはくつくつと笑った。そうやって歩いた日々からもう十年になるのか。

「それはそれとして、あとでやってほしいことがあるんだよ」
「何だい」
「スマホのさ、音声読み上げ機能の設定」
「……いいよ」
「そのくらい自分でやれって言わないの?」

いつものように軽口をたたくと、短かった夫の返事が止まり、思わずわたしは手をぎゅっと握った。ごめん、そういうつもりではなかったんだ。
わたしはそのまま強く握って、夫が返事出来なかったことに気づかなかったふりをする。

「こうなってみると、活字中毒というより情報中毒なんだろうね」
「情報」
「何かを、新しく仕入れてないと落ち着かなくて仕方ない」

河川敷へあがる土手への階段。さすがにそれが何段だったかまでは覚えてはいない。まだ半分濡れている草いきれ。開けた場所特有の、反響せずに空へ抜ける音。手をつないだままペースを落とさずに階段をどんどん上ると、隣で夫が少し慌てた声でわたしの足元を実況した。

「あと五段、いや、三、二、一段、つぎ、もう登れないよ」
「『おやすみ』」

やっぱり声が揃い、階段を登り切ったわたしたちは笑った。額への風のあたりかたで、そこが広い場所だということが分かった。土手の頂点だ。鉄橋の脇、まだらの日陰。手を引かれた方に何歩か動くと、日差しが途切れるのを感じた。実に気を遣うやつめ、と夫に対してつくづく感心する。

「よくそんな、すいすいのぼるな。こわくないのかよ」
「そりゃそうさ、スズ君、マメだもん。全部教えてくれるでしょ。躓いても、ガッてやってくれそう。安定感あるよ」
「おれは、マメじゃないし、体幹もよわい」
「スズ君と一緒なら、わたしはいつだって歩いてこられる」

わたしは本音を伝えた。

「いつだって歩いてこられたし、今日もさ、これだけ明るければ、スズ君がそこにいるの、ギリギリ見えるよ」

わたしは目を開き、ほとんどまっくらな中、鉄橋を背負って立つ夫の姿を見た。これから迷惑をかけることになるね、と伝えてしまうと、きっと夫も、そして言っておいてなんだが、わたしだってつらいだろう。

まだ、できることは結構ある。さすがにひとりで河原に来るのは難しくなるかもしれないが、世の中にはひとりで電車に乗る人だってたくさんいるのだ。テクノロジーは進化して、テキスト読み上げも、音声入力だってある。聞く限りは、すぐ死ぬ病気ではないそうだ。少し不便になるだけで、仕事も趣味も、完全に奪われるわけではない。ただ、今、夫がどんな表情をしているのか見られないのはちょっとだけ残念ではあった。輪郭は、うっすら見えるのだが、とにかく視界が暗い。
わたしの視力は、もう少しで完全に失われることが決まっていた。

もしかしたら、よく見えないのは幸運だったのかもしれない。夫の泣き顔を、わたしは見たくなかった。

「来たばっかりだけどさ、そろそろお茶の時間だよ」

返事の代わりに夫はわたしの手を取り、そして引っ張った。ぎゅう、と音の聞こえるような抱擁の圧。こっちの台詞だよ、君こそお茶の時間に決まってるだろ。夫が小さい声でいう。なんだい、スズ君泣いてんのか。泣いてないよ。いや、そこは泣いていいとこだろ、泣けよ。もうやめて、情緒が迷子になる。ンフフフ。
わたしは彼をたっぷり撫で回すことに決めた。帰ってお茶を入れるのは彼の仕事になるとは思うが、それでも、いっしょうけんめい、力いっぱい、労って、撫で回してやろうと思ったのだった。

わたしは彼を愛している。
それを思った。たとえそれがこの先、わたしと別々の道を歩くことになるとしても、それでも彼を愛していると、わたしは思うのだ。だからわたしは言う。わたしを月まで連れて行って。ああ。あるいは。

「帰ったら、きっとお茶にしようね」

わたしは彼の髪をかき回しながら伝えたのだった。

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