あなたがたのしそうに笑うので

予定よりもひとつ早い電車に乗ることが出来たハナは、鞄の中のハンカチを広げて膝にかける。買ってきたカフェオレにストローを勢いよく差し込み、窓の外を眺めた。

彼の身勝手さは今に始まったことじゃないだろう、と思うのに、毎回腹を立ててしまうのはなぜだろう。膝上にかけたハンカチは少女趣味のギンガムチェック柄で、電車のリズムに合わせてゆれる。
カタン、ガタン、タン、カタン。
「あと30分で着くよ。」
なめらかにスマートフォンの画面へ指を滑らせ、簡素な文を送ってから息をふう、と吐いた。

改札を出ると彼はそこに立っていて、片手を上げて「お疲れさん」と声をかけてきた。相変わらず背が高くて見上げてしまう。ノータイに、ふたつボタンを開けた隙間から覗く喉仏は陳腐なセリフで言うところの「セクシー」だろう。それよりも衣服の下に隠れている少し肉付きのよくなった腰回りや、締まった足首、臍の横にあるほくろの方がよほどセクシーなのだけれど。
「電車、混んでた?」
「んー、全然。」
どちらからともなく手を繋ぎ、握る手の強さで今日の主導権はどちらにあるかを探るようになったのはいつからだろう。
「手ぶらなの?」
「そ、ホテルに荷物全部置いてきた。」

何年も前に流行ったクリスマスソングが店内に流れていて、でも私たちはそんな思い出すら共有していないことがおかしかった。
傍から見れば恋人同士のようなのに、ここにあるのは恋でもなければ愛でもない。ただの、憐憫だ。
銘々好きな料理を頼み、お互い気を遣う事なく好きなアルコールを選ぶ。相手のペースはお構いなしで、私たちは本当に十何年も好き勝手に抱き合い、別れ、それぞれ結婚し、遠くへ行ったり、求めたり、離れたり、またこうして会ったりしている。
「ハナは、」
最近仕事はどう?と彼が聞く。
「忙しくも暇でもないっていう感じ。楽しいよ。そっちは?」
「終わった」
「何が」
「仕事じゃないんだ」
「何が」
「離婚したんだ。」
どうして私たちはこうも、いつもちぐはぐなんだろう。

私たちは歳を重ねる。
張りのある皮膚は徐々にたるみ、皺が増える。しみなのかほくろなのか、検討のつかないものが増える。関節が傷んだり、風邪を引きやすくなったり、治りにくくなったり、食べたいものを欲しいだけ食べられなくなったりする。
この首筋に憧れた。筋張っていて、長い首が制服のシャツから見えているのをドキドキしながらいつも見ていた。今、私はそれを指でなぞることが出来る。そのまま指を動かし鎖骨を辿ると彼はくぐもった声で私の名前を呼んだ。
彼の長い腕と身長のせいで、手をつなぐのに苦労した。学生時代はドキドキして手すらつなげないでいた。何を着ても似合っていた。最近はスーツ姿しか見ていないことが、少し寂しかった。
どうしたって私たちは一緒になれることはないのだと、いつから気付いてしまったのだろう。どれほどに求め合ったとしても、どれほどに粘膜を重ねようとも、隔たりを捨て去り何もかもが混ざり合ったとしても、ひとつに、一緒になれることはない。

うすい微睡を超え、お互い目を覚ました頃には夜が明けかかっていた。
おはよう、と短く、どちらともなく呟く。
皮膚からは枯草の匂いがした。
何もかもが手元にあるのだ、と錯覚していた時分を超え、今ここで私たちは言葉にしないまでも失ったもの、無くしたものに思いを馳せる。
あの頃は若かった、と思うことは自由であるのだし。
「ねえ、今度は遠くで会わない?」
「どこ?」
「南の方。」
「ハナ、暑いの嫌いじゃん。」
「それよりももうちょっと西というか、こちら側。」
なんだそれぇ、と彼がくつくつ笑い、お腹が揺れた。
そこにそっと手を乗せてみる。
「どうした」
「ね、ちょっと面白いからこのまま話してて。なんでもいいから。」
「この前社食で食ったうどんの話でいい?」
「うん、そういうの好き。」
彼がおうどんの話をしている間、どんどん手のひらがあたたまり不思議な気持ちになった。幸福の温度とはまた少しちがう、終わりの分かっている温度だ。生きているから終わりがくる。命もそうだし、関係もそう。
あの時「好きだ」と強く、深く思った気持ちだって終わってしまう。
例えどれほどに好きだ好きだと言い募り、むさぼり合いを重ねたって、月日が経てばその艶やかしさを、体力を、心の強さをどこかに置き忘れるのだ。
おうどんの話が終わりに近付いたので、そっと手のひらを下に這わせる。
かたく、癖の強くない毛を触ると、彼は少し楽しそうに笑った。
それは確かに、はじまりの合図だった。

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